ごきげんよう、ハゲと天パです。
みんな大好き三国志。
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる三国志。
数多の英雄たちが駆け抜ける三国志。
そんな三国志に欠かせないのが、
国と戦を動かす軍師の存在。
本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。
三国志軍師紹介も折り返し、第6回の陸 遜(りく そん)は、
中国の後漢・三国時代の武将・政治家。
もとの名は議。字は伯言(はくげん)です。
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だってお金がほしいので。
「三国志演義」では、
孫権が呉の国主になったときに配下となった武将の一人として名があがり、
「身長八尺(約184cm)、面如美玉」と
体躯堂々たる美男として描かれ、
書生(儒学者・知識人)と名乗っています。
孫権に才能を買われ、関羽討伐や夷陵の戦いにおいて活躍。
軍政両務における呉の重臣として重用されましたが、
晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立します。
●陸遜の生い立ちと活躍
若くして陸家の長に。
揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)を発祥とする陸氏は、
「呉の四姓」と呼ばれる有力豪族で、
今回の主人公の陸遜はその傍系として生まれました。
お父さんの 陸駿 は徳と誠心を持った人物としてまわりから慕われ、
九江郡の都尉(軍事長官)にまでなりましたが、
陸遜がまだ幼かった頃に亡くなってしまいます。
陸遜の家族は本家筋の陸康(陸遜の従祖父)を頼り、舒県に住みました。
舒県といえば 周瑜 の地元ですね。
この陸康は廬江郡の太守だったのですが、
揚州を袁術が牛耳るようになると次第に袁術と対立、
袁術の配下だった孫策の攻撃を受けるようになります。
後の運命を覚悟した陸康は、
まだ幼かった跡継ぎの陸績を陸遜に委ねて本籍である呉県に避難させますが、
その後、孫策に討たれ、一族の多くも戦死することになります。
陸遜は家長である陸績より年上だったので、
「ボクがしっかりしないと!」と健気にも後見人として陸家を率いることになります。
孫策が存命中は一族の仇ということもあり仕えることはありませんでしたが、
孫策が暗殺され、跡を継いだ弟の孫権が行った人材登用により初めて孫氏政権に仕えます。
203年(建安8年)、21歳のときでした。
※陸績は孫策に仕えています。父の仇なのに。
孫権陣営では、最初は文官として仕事に就き、
秘書官を務めた後、海昌県というところの統治も任されます。
当時、このあたりの地域は何年も干ばつに悩まされて地元の人達も困っていましたが、
陸遜は倉庫を開いて貧しい人々に穀物を配ったり、
農業と養蚕を推奨し農業発展を監督させたりと、
民の生活を支えて地元の人々の信頼を得ます。
反乱鎮圧のプロ。
当時、孫氏の勢力下にある呉郡・会稽郡・丹陽郡には、
その統治に不服従な異民族が多くおり、
陸遜はその中から兵士を募ることを進言。
特に山越(さんえつ) という人たちは、
しばしば孫家や呉に反乱を起こし各地を荒し回っていました。
陸遜は志願兵を募って奥地まで出兵し、
彼らの頭領の潘臨という人を降伏。
このとき編入した兵士は2000人にも及んだそうです。
216年(建安21年)にはまた別の不服住民 尤突ら数千人の反乱を鎮めました。
翌217年(建安22年)、
孫権は陸遜に政治の意見を求め、
「さらなる軍勢の強化と国内の安定を急務、そのために山越を討伐し精鋭を増やしましょう」
と陸遜は主張。
孫権は会稽・鄱陽・丹陽の3郡の統治を陸遜に任せます。
この時、丹陽では不服従民である費桟が曹操の扇動により蜂起。
費桟の大軍に対して陸遜の軍は寡兵でしたが夜襲をかけてこれを打ち破りました。
こんな感じで3つの郡で兵を募り数万人を得たことで、賊達は一掃され治安は強化されたのでした。
荊州攻略。
219年(建安24年)、
荊州方面では劉備軍と領土をめぐって緊張状態が続いていましたが、
劉備軍の将軍、関羽と対峙していた呂蒙が病気になり、建業に戻ることになります。
そのころの荊州は、
北の方で関羽と魏の曹仁がバチバチ、
南の方では孫権軍と一触即発という状態。
そんな時に呂蒙が病気で帰ってくるという事態に陸遜は、
帰路の呂蒙を直撃し、
「今この状況で帰って来るのなあぜなあぜ?」と質問。
病人にわざわざ聞くメンタルもやばいですが、
関羽が北に気を取られているうちに背後を急襲すれば荊南を取れますよ。
と関羽を打倒し荊州を手に入れることをすすめます。
孫権がいる建業に戻った呂蒙は、
代理の武将について孫権から相談され、
「陸遜は才能が優れており、かつ関羽に名が知られていない事から、適任です。」
と述べ、
孫権も「それがいいね!」と陸遜を抜擢します。
陸遜はあえて
「関羽将軍はまじすごいっす、私経験もないのでホントお願いしますねー。」
と軍功を称えた手紙を何度も関羽に送り、これに関羽は油断します。
呉に対する備えを完全に怠り、呉方面の守備軍も北に回します。
わかりやすく舐めプしはじめました。
しめしめ。
陸遜はこの状況を孫権に報告し関羽を捕えるための作戦の要旨を進言。
孫権は、関羽討伐を決断、呂蒙と陸遜に長江を下らせるのでした。
陸遜は呂蒙と共に公安・南郡というところを攻撃、たちまち降伏させてさらに進撃。
この電撃的な奇襲に北に集中していた関羽軍はびっくり。
退路を絶たれた関羽は益州の劉備の下に戻れず討ち取られます。
荊州を制圧後、城の長官や居住する住民達は陸遜に帰順。
呉の朝廷より与えられた金銭や宝物を陸遜は帰順してきた者に振舞い、彼らの信頼もゲットしました。
また、部下に命じて近隣の劉備軍の残党や劉備派の支援者も追討。
帰順させた者の合計は数万人にも達したそうです。
また、新たに呉に服属した荊州の人達の多くが能力に応じた活躍の場が得られない状況を見て、
その不満を取り除いてやるよう孫権に上奏。孫権もそれに従います。
陸遜やさしい。と思いきや、
人情というよりスマートに運営するためのリアリストたる行動でしょう。
夷陵の戦い。
少し時は過ぎて222年(黄武元年)、
蜀(蜀漢)を興し皇帝となった劉備、
関羽を討ち取られた復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻してきます。
孫権は強敵劉備を迎え撃つために陸遜を大都督に大抜擢。
陸遜は5万の軍の指揮をとって劉備軍と対峙します。
陸遜の指揮下に入った諸将は古参の宿将達や、
宗室に連なる身分で非常にやりにくく、
彼らとしてもポっと出の陸遜の下というのは不服。
侮って臆病者とディスってきたり。
陸遜も彼らが言うこと聞かないので、
孫権から与えられた剣に手をかけ軍令を守らせたりとギスギスの人間関係でした。
孫桓という武将が敵に包囲されたときも
「あの人なら大丈夫でしょう、優秀だからやればできますよ」
と、一切援軍を出さず、恨まれたりします。
そんな空気最悪の中でも粛々と仕事に励む陸遜。
劉備は盛んに呉軍を挑発しましたが、
陸遜は伏兵を見破ってそれに応じず、
逆に劉備軍の疲弊を見て反撃。
火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍をボコボコに壊滅させます。
劉備自身もを白帝城に敗走しました。
このときになって初めて諸将は
「あの子、すごいじゃない。」
と陸遜の実力を認め信頼します。
上記の援軍を出してもらえなかった孫桓も後に、
「いや、あの時は死ぬかと思いましたし恨みましたけど、
策もあたったわけですし言うことないっす。」
と語り、陸遜の智謀の深さに畏敬の念を表したそうです。
ちなみに当時、
諸将の勝手な振る舞いや騒動について陸遜は孫権に報告しませんでした。
後から知った孫権は
「なぜ報告しなかったのか」
と問いましたが、
「主上の恩を受け、実際の能力より重大任務を背負う事になりました。
まして諸将は国を支える功労者です。
臣は昔の名臣、藺相如・寇恂のような人を慕い、国事を遂げようとする者であります」
と答えます。
孫権はこの言葉を気に入り、陸遜を一層信頼し、重用するようになりました。
一方の劉備は白帝城にとどまっており、
呉でも劉備を捕えるため白帝城を攻撃する意見が高まります。
陸遜は孫権に意見を求められると、慎重派の意見に同意し、
魏の曹丕が表向き援軍として軍を進めてきているけど、
実は攻撃を企んでるから撤退して魏に備えた方がいいと主張します。
いわんこっちゃない、まもなく曹丕は呉への攻撃の意思を示し、攻撃をしかけてきました。
劉備は陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を送ることを提案しましたが、
「呉蜀の国交が回復したばかりですし、
蜀軍は敗北で疲れきってるから国力の回復に努めるべきじゃないすかね。」
と陸遜は意見し、やんわりお断りしています。
石亭の戦いと孫権の信頼。
223年(黄武2年)4月、
陸遜は丞相の孫邵や群臣一同と共に、孫権に帝位に即く事を進言。
劉備が崩御し、劉禅が蜀の皇帝に即位すると、
諸葛亮が丞相として政権を握り、呉と蜀の国交は完全に回復するようになりました。
孫権は諸葛亮に手紙を送るときは、常に陸遜を通じて行い、
また、自身の印璽を陸遜に預け、呉の蜀との外交文書は陸遜が添削した上で発行されるようにしました。
歴代でも破格の待遇です。
228年(黄武7年)、
孫権は、偽りの降伏を魏に申し出て、
10万の兵を指揮する曹休を石亭に誘い出し、やっつけることを命令。
陸遜を大都督に任命し、
曹休追討の指揮を執る事を命じました。
陸遜は、朱桓・全琮にそれぞれ3万の兵を与えて左右の部隊の指揮を任せ、
自身は中央の軍の指揮を執り、3部隊に分かれて同時に進軍。
曹休は騙された事に気づきましたが、
自身が指揮する軍勢が大軍なので、
「まあ、余裕やろ。」
とそのまま呉軍との交戦に及びます。
曹休は伏兵を配置していたものの、
陸遜はそれを蹴散らした上で曹休と戦ってボコボコにやぶり、
追撃をかけて1万余の兵を斬ったり捕縛し、
多くの馬や兵糧を奪い、車両など兵器類も1万台を手にいれました。
曹休は部下の援護により脱出することができましたが、
敗北の恥辱により背中に腫れ物が出来て死去しました。
どういう状態?
229年(黄龍元年)、
孫権が皇帝に即位するのに伴い、
陸遜は上大将軍・右都護の官を授かります。
その年の秋、孫権は首都を再び建業に戻し、
武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにしました。
太子の後見役として陸遜は武昌に呼ばれ、
荊州と揚州の三郡の統治、合わせて軍事と国事の監督を任されました。
孫権の息子が鳥バトルに廃課金したり、他の息子がサボったりしてたので、
直々に注意したりと皇子・公子達の教育係も務めました。
234年(嘉禾3年)5月、
孫権は自らは合肥に出兵するとともに、
陸遜と孔明のお兄ちゃんの諸葛瑾に襄陽を攻撃させます。
陸遜が送り込んだ腹心の韓扁という人が敵と遭遇し捕虜となってしまい、
諸葛瑾は機密が洩れたとビビリますが、
陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていました。
諸葛瑾は、
「ははーん、陸遜には考えがあるのだな」と察し、
陸遜は状況を冷静に分析した上で、撤退の作戦を教示。
その作戦に従い、無事に撤退することができたそうです。
陸遜は撤退の途中、表向きは狩猟をすると偽り、
将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲。
江夏郡の安陸・石陽城を攻め落としました。
特に石陽の人々は完全に油断していたので大損害を受けましたが、
陸遜は軍に乱暴を禁止し、捕虜も優しくねぎらい、自由な帰宅も許したので、
魏の官民からは呉に帰属する者も多く出たそうです。
晩年と最期。
孫権は呉が建国して皇帝になった後、
ダメダメムーブを繰り返すことになることは有名ですが、
嫡男だった皇太子の孫登が死去し、
代わって皇太子となっていた孫権の三男の孫和と、
四男の魯王孫覇がそれぞれ役所を持ち、
各地の豪族も2人の宮にそれぞれが子弟を送り込むという後継者問題が激化する事態となっていました。
244年(赤烏7年)に丞相となった陸遜は、
豪族達に勝手な行動はさせないようにと述べますが、
後継者問題が紛糾し、皇太子孫和の廃立の声が強くなると、
陸遜は上奏して嫡子と庶子の区別をつけるように述べ、
首都の建業に出向いて孫権を直接説得しようともしますがそれは許されませんでした。
孫権もちょっと老害化していたので、
陸遜に対して厳重注意の書状を何度も送り、
憤慨の中で陸遜は死去します。享年63歳。
陸遜の死後、楊竺という人が陸遜に関する二十条の罪状を告発しますが、
息子の陸抗が陸遜の故郷埋葬のために呉郡に戻ったときにすべて晴らしました。
251年(太元元年)に陸抗が病気治療のために都に上り、
病が癒えて任地に戻るときには、
孫権は陸抗の手をとって涙を流して謝罪し、
陸遜に対する謝罪の言葉を述べた上で、自分の送った手紙はすべて焼き捨ててくれるよう嘆願したそうです。
●陸遜の人物像
さてさて、
陸遜の活躍と生涯でしたがそこからも垣間見える通り、
忠誠実直、また、清廉な性格でもあり、朝廷において厳粛な人物でした。
先見の明があり、周到に熟考することができたといいます。
また、丞相という最高の権力を得ましたが、
倹約家であり、亡くなった時には家に余財は無かったそうです。
仕事に対しては厳しく、
特に年若い者に対しては厳格な一面があったそう。
若い皇族の教育係を任されたため、
孫権の息子たち、孫慮・孫松や、皇太子孫登の友達の謝景に厳しい態度をとる話も多いです。
孫権からの信頼厚く特に親密で、
孫権は「私とあなたとは情けをかけること特に異なり、喜びも悲しみも同じくしてきた」と述べています。
「呉書」には石亭の戦い後のお祝い会の話が収録されており、
陸遜が曹休を破って凱旋した際、孫権は陸遜に皇帝同様の待遇を与え、労をねぎらいました。
孫権は左右の者に命じて御蓋で陸遜を覆わせて殿門を入出させたそうです。
孫権はこの時、大宴を開きますが、
お酒が盛り上がった時、陸遜に踊らせて、続いて二人で共に舞を踊ったそうです。
インド映画かな?
ちなみにこのダンスは漢代に流行した社交ダンスで属舞、以舞相属とも呼ばれています。
主人の方が先にダンスをして、それから客の方を誘ってダンスをするそうですが、
相手に好意があれば、客の方は受け入れて二人で踊り、
相手が嫌いなら、客の方はダンスを拒否するそうです。
なお、その踊りの褒美として孫権は陸遜に、
白いモモンガの毛皮で作った衣服とカワセミの羽で飾った帽子をプレゼントしました。
また、孫権はつけていた黄金の帯を脱いで、陸遜にあげ、自ら帯を締めてやったそうです。
孫権は服をプレゼントしがち。
陸遜が西陵に帰還する際には、
公卿らをあつめて陸遜のために道中の安全を祈願し、
自らの船を一隻下賜し、七色の絹布と赤い染料をおみやげにあげたそうです。
めっちゃ好きやん。
もともと陸家は呉の四姓と呼ばれる地方豪族でしたが、
陸遜をはじめとする一族は孫氏に重用されたことから大いに繁栄することとなりました。
呉で陸氏一門は2人は丞相になり、
十数人の将軍を輩出し、侯に封ぜられたのが5人(陸抗・陸景・陸凱・陸胤・他1人)にのぼりました。
また呉の皇族と通婚関係も結んでいます。
のちの皇帝、孫亮の時期の全氏に続いて、呉の氏族の中で陸氏は最も栄えることになり、
隋唐まで陸氏一族は江南士族の代表とされているそうです。
呉の滅亡後も西晋に仕えて重用されましたが、
後の反乱に深く関わりすぎてしまったため、
名声を妬む人達の讒言によって謀反の疑いをかけられ、一族全員が処刑。
陸遜の子孫は断絶してしまいます。
弟の陸瑁の家系は存続し、子孫は東晋の重臣にまで昇進したそうです。
「三国志」の作者陳寿は
「劉備は、広く天下に英雄として名があり、当時の人々は皆彼を畏れはばかっていた。
陸遜は、ちょうど壮年に達したばかりで、その威名もまだ人々に知られてはいなかったのであるが、
その彼が劉備の鉾先を打ちくじいて勝利を収め、全て計略どおりに事が運んだ。
私は、陸遜の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく人の才能を見抜いて、
その人物が大きな事業を成し遂げられるよう取り計らってやった事にも感嘆する。
陸遜は忠誠を尽し、国を憂いて身を亡ぼすことになったのだが、ほぼ社稷の臣といえるだろう」
と評しています。
一方、その「三国志」に注を入れた裴松之は、
陸遜が自ら命じて行わせた石陽急襲により多くの住民が被害を受けたことを批判し、
その後に戦傷者を保護した一件についても、
「無辜の民衆を酷い目に合わせた」
「孫の代で一族が絶えたのは、この悪行の為であろうか」
とまで言っていたりと、辛口です。
孫権は陸遜に
「公瑾は勇敢で、膽略は人を兼ね、遂に孟徳を破り、荊州を開拓した。邈かにして継ぎ難く、君が今これを継いでいる」
と言っており、
呉の家臣の中では能力は周瑜と並んで高く評価されています。
以上、呉最後の大都督、陸遜の紹介でした。
忠誠実直で清廉な性格の優秀な軍師。
孫権からの信頼が厚かったのは、
感情に動かされず、
やるべきことをきっちり着実にやっていく、
リアリストな仕事人なところだったのかと思います。
三国志軍師編も三分の一が終わりました。
次回からはついに魏陣営です。
よろしくお願いします。
以上、呉の(軍師なのか?)魯粛の紹介でした。
次回は魯粛や周瑜、彼らの意思を継ぐ陸遜を紹介します。
よろしくお願いします。
なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。
ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。
参考:
陸遜-wikipedia
呂蒙-wikipedia
関羽-wikipedia
関連してるようなしていないような こちらもどうぞ。
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