前回に引き続き、
気になる日本文学シリーズ。
日本のクラシックな文学は数ありますが、
ウチのブログのテーマ、
東洋哲学や神話について紹介するお絵かきブログ
に沿って、ウチ好みのセレクトで、
ウチなりの解説を交えつつ不定期に語っていきます。
第一回目は、
明治の文豪、森鴎外の「寒山拾得」、
今回は後編です。
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だってお金がほしいので。
●森鴎外「寒山拾得」あらまし
言わずと知れた明治・大正の文豪森鴎外。
彼の作品はたくさんありますが、今回のテーマはその1つ、「寒山拾得(かんざんじっとく)」。
1916年(大正5年)1月に「新小説」に発表された短編小説です。
中国、唐代の詩僧、寒山と拾得。
両者とも在世年代は不詳ですが、
既成の仏教界や詩壇からはみ出した「孤高な隠者」として300余首のも詩を残した伝説的な人物です。
寒山は始豊県西方70里の寒巌幽窟に住んでいていたことが由来、
拾得は天台山国清寺の豊干(ぶかん)に拾い養われたので拾得と称し、国清寺の行者となりました。
たいへん風変わりな二人は、
時にお寺のなかで奇声を発して大声で叫んだり、
時に詩を吟じながら廊下を悠々と歩いたりしたりして、僧たちを困惑させたそうです。
そして、お坊さん達が追いかけると手を叩いて大勝しながら逃げ回ったんだとか。
そんな二人ですが、その生き様が、仏教の哲理には深く通じており、
いわば教えを体現する、ナチュラルボーン仏教。
たくさん残した詩も、壁や木片、竹などに書かれていたそうで、すごくフリーダムです。
時代が下って宋代以後、彼らの生き方に憧れる禅僧や文人によって格好の画題とされ、
特に有名な 顔輝 作の「寒山拾得図軸」は、足利将軍家・織田信長・石山本願寺に伝来。
顔輝-wikipedia
最近では現代美術家・横尾忠則さんが独自の解釈でシリーズとして手掛け、展覧会も開催されました。
そんな寒山と拾得の伝承を下敷きにした、鴎外の「寒山拾得」。
短編というだけあってコンパクトなので気軽に読める読みやすさ。
字を読むのが苦手な方は、YouTubeとかに朗読の動画もあるのでそちらが良いと思います。
おすすめは、「情熱大陸」でおなじみの
ナレーター窪田等さんの動画。
本当にすばらしい、まさに珠玉なので今回もご紹介しておきます。
作品を読んだり、上記朗読など聞いてもらって、ストーリーを入れてから読んでもらったほうがいいかもしれません。
●前回のあらすじ
西暦7世紀のはじめの時代、唐の貞観(じょうがん)のころ、
閭丘胤(りょきゅういん)という官吏が、台州(現在の浙江省台州市一帯)の県知事的なポジションに就任します。
着任してから三日、多忙ながらも台州ライフを満喫していた彼は、台州に来たら絶対行きたいところがありました。
そこは、天台県の国清寺。
なぜならこんな因縁があったから。
彼がまだ長安にいてこれから任地へ旅立とうとしたとき激しい頭痛に襲われます。
これは旅立ちを延期せにゃならぬ。と思っていたところに、旅のお坊さんが訪問。
お坊さんは水を使ったおまじないでたちどころに頭痛を治めます。
お坊さんは、天台国清寺の豊干(ぶかん)と名乗り、
台州に行ったら会うべき賢人はいますか?と閭丘胤が尋ねると、
国清寺に拾得(じっとく)いう者がおり、寺の西の石窟に寒山という者がいる。
彼らは普賢菩薩と文殊菩薩の化身です。
そんじゃ。
と立ち去ります。
当時、ひとかどの名士は賢人とお付き合いするのがステータス的なところがあり、
閭丘胤も、そんな人達とぜひお知り合いになっときたいな、と思ったのでしょうね。
さてさてうまくいくのでしょうか。
●寒山拾得 後編
出発 閭丘胤。
念願の国清寺に出発の日、
わっくわくの閭丘胤は衣服を改めお輿(こし)に乗って台州の官舍を出ます。
従者は数十人とまるで大名行列。
そういえばこの人、偉い人でした。
時は冬の初めで、霜も少し。
川を迂回しつつ北へ進んで行きます。
くもっていた空もようように晴れてきて、日の光が岸のもみじを照らし、
道中で出合う人々は皆、お輿を避けてひざまずく。
輿の中の閭丘胤ひどくいい心持ちになっています。
これから賢者にご挨拶するというムーブも、まるで手柄のように思われて彼に満足を与えるのです。
天台県まではゆるゆるの旅。
県からの迎えに会った頃にはもう午後だったので、
官舎で休み、ご馳走になりつつ聞いてみると、
ここから国清寺までは、まだまだあり到着は夜になっちゃうとのこと。
虎も出るので官舎に一泊。
ナチュラルに虎がでるとか、大陸はスケールがでっかいですね。
翌朝、役人に見送られて出発、今日も今日とていい天気。
虎が出る険しい山道のため旅の工程は昨日のようには進まず、途中でランチを済ませ日が西に傾きかかったころ、国清寺に到着します。
国清寺は天台宗の中心的な寺院であり、
開祖の智顗(ちぎ)によって建設がはじまり、没後隋の開皇18年(598年)に完成。
はじめの名前は天台寺と言いましたが、のちに国清寺に名を改めたそう。
文中では、智者大師の滅後に、隋の煬帝(ようだい)が立てた。となっています。
国清寺到着。
ところで、文中で鴎外が曰く、
「世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度には三通りあり、
自分の職業に気を取られて、ただ営々役々と年月を送っている人は、道というものを顧みない。
これは読書人でも同じことである。もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。
しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。
これは全く無頓着な人である。
つぎに着意して道を求める人がある。
専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。
儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督クリスト教に入っても同じことである。
こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。
つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、
それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、
自分をば道に疎遠な人だと諦念あきらめ、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。
尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、
道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、
ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。
そこに盲目の尊敬が生ずる。盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠(せいこく)を得ていても、なんにもならぬのである。」
とのことで、
閭丘胤はまさに「中間」の人。
自分の会得していないものを持つ人に盲目の尊敬を抱いています。
そして鴎外は、「盲目の尊敬」では、たまたま物事の要点や核心をついていてもなんにもならないと語っています。
さてさて、お寺に着いた閭丘胤一行。
国清寺サイドでも、お偉いさんのご参詣だというので、お出迎え。
道翹(どうぎょう)という僧が出迎えて、客間に案内、おもてなしを受けます。
饗応が済み閭丘が、訪問のきっかけになった豊干について問うと道翹いわく、
豊干は本堂裏手の僧院で、僧たちが食べる米をつく仕事をしており、
親切で寺のために骨惜しみしない豊干をみんな大切に思っていましたが、
ある日ふいと出ていったかと思うと、
虎に乗って帰ってきた。
とのこと。
そしてそのまま廊下に入って詩を吟じて歩いた。
それからは夜になると僧院で詩を吟じていたが、行脚にでたきり帰ってきていない。
と語ります。
閭丘胤は僧院への案内を願い、
主がいなくなり空き家になった僧院を訪れます。
夜になるとしばしば虎が来て吠えているとのこと。
実際、石畳の上には虎の足跡が残っており、
国清寺、デンジャラスすぎない?
山風が吹いて庭の落ち葉をまき上げ、その音に侘しさを感じた閭丘はゾッとして空き家を後にします。
その道すがら、あとからついて来る道翹に、
「拾得という僧はまだ当寺におられますか」
と尋ねると、
道翹は不審に閭丘の顏を見て、
「よくご存じでございます。
先刻あちらの厨(くりや)で、寒山と申すものと火に当っておりましたから、
ご用がおありなさるなら、呼び寄せましょうか」
と答えます。
わお、寒山もいるじゃん、やったね。
と、うれしい閭丘。
ウキウキで会わせてもらいます。
念願のご対面?。
厨へ案内する道翹。
本堂について西へ歩いて行きます。
背後から閭丘が「拾得はいつごろから寺にいてどんなお仕事をしているのか」尋ねると、道翹がいわくに、
「もうよほど久しいことでございます。
あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます。」
とのこと。
拾われてきてから三年ほど立ったとき、食堂(じきどう)で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、
お供えをさせたりしていましたが、
ある日、尊い賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)の像に食事を供えて、自分も向き合って一緒に食べているのを見つかり、
最近は厨で僧たちの食器を洗わせている。といいます。
「はあ」とちょっと違和感を感じ始めた閭丘、寒山についても尋ねると、
寒山は寺から西の方、寒巌という石窟に住んでおり、
拾得が食器を洗う時、残った残飯を竹の筒に入れておくと、寒山がやってきてもらっていくとのこと。
「ん?」となりながらも、「なるほど」とついて行く閭丘、
「寒山、拾得が文殊、普賢なら、虎に乗った豊干はなんだろうなあ」
というような気分になっていました。
道翹に連れられ厨に到着。
湯気がいっぱいこもった厨には大きい竈(かまど)が三つあって、どれにも残った薪まきが真赤に燃えています。
石の壁に造りつけてある机の上で大勢の僧が飯や菜や汁を鍋釜から移しています。
一番遠い竈の前に二人の僧がうずくまって火に当っており、
一人は髪の伸びた頭で草履、もう一人は木の皮で編んだ帽子をかぶって木靴。
どちらも痩やせてみすぼらしい小男で、豊干のような大男ではありません。
道翹が呼びかけたとき、
ひとりはにやりと笑ったものの返事せずこれが拾得。
帽をかぶった方は身動きもせず、これが寒山。
(イラストぜんぜんかぶってない)
閭丘は二人に対して袖を掻き合わせてうやうやしく礼をし、
「朝儀大夫(ちょうぎたいふ)、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋(しひぎょたい)、閭丘胤と申すものでございます。」
とものすごい丁寧に名のります。
もう呪文です。
二人は同時に閭丘を一目見ると、顏を見合わせて大爆笑。
一緒に立ち上がると、厨を一目散に駆け出して逃げていきました。
逃げしなに寒山が
「豊干がしゃべったな」
と言ったのが聞こえたといいます。
これには閭丘ポカーン。
驚いてあとを見送っている閭の周りに、飯や菜や汁を盛っていた僧らが、ぞろぞろと来てたかります。
お偉いさんのこのザマに、
道翹は真っ青になって立ちすくんだのでした。
おしまい。
まとめ。
そんなわけで「寒山拾得」のストーリーでした。
この作品は1915年(大正4年)の11月29日に脱稿。
寒山詩の広告を新聞で読み興味をもった鴎外のお子さんに説明として語った話が元となってこの作品が出来たそうです。
歌人の斎藤茂吉によると、
「徹頭徹尾簡潔な文章で書かれているため当時の文壇で言及されることは皆無といってよかった」
としており、
「森鷗外作品事典」では、
「身分意識・事大主義が「哄笑」によって顛倒されるところに、作者の退官前の境涯も投影していて、特異な魅力をもつ作品となっている」
と評されています。
鷗外自身としても、
「私は丁度其時、何か一つ話を書いて貰ひたいと頼まれてゐたので、子供にした話を、殆其儘書いた。
いつもと違て、一冊の參考書をも見ずに書いたのである」
と語っています。
斎藤茂吉は、
「他の小説を書かれる時には、その資料を整へるだけでも並々ならぬ手数をかけるのが常であるのに、
この小説は、恐らく嘗て讀まれた白隠の寒山詩闡提記聞の記憶に據ったに過ぎぬであろう」と、
この主張を支持する姿勢を見せ、
閭丘胤の姓、役職や待遇の表記を間違えている点についても、
だいたいの記憶で書いたから間違っちゃったんだね。仕方ないね。と推測しています。
まあ、「寒山詩闡提記聞」に取材しており、
東京大学総合図書館・鴎外文庫中のこの本に鴎外のメモが挟まっていたので、
実際にはこれを参照しながら執筆された可能性があると現在は考えられていることがわかってきたそうです。
執筆についてのエピソードを書いた「寒山拾得縁起」という文章があり、
これがすごく微笑ましくて好きです。
要約するとこんな感じ。
子供に物を問われて困ることはたびたびあり、中でも宗教のことには、答に窮することが多い。
でもごまかして答えないのは、嘘だというのと同じなので子供のためによくないよね。
寒山詩が活字本になって、うちの子がその広告を読んで買ってと言ったけど、
「漢字ばかりだから、君にはまだちょっと難しいよ?」と言うと、
どんなことが書いてありますか?と聞いてくるのでとりあえず、
「床の間に人が二人で笑っている絵があるでしょ?
あれが寒山と拾得で、寒山詩はその寒山が作った詩なの。
詩はなかなかむずかしいんだよ」
と教えてあげた。
子供は、
「詩はむずかしくてわからないかもしれませんが、その寒山という人だの、それと一しょにいる拾得という人だのは、どんな人でございます」
と聞いてくるので私は寒山拾得の話をした。
ちょうどそのとき、何か一つ話を書いてもらいたいと頼まれていたし、子供にした話を、ほとんどそのまま書いた。
いつもと違って、一冊の参考書をも見ずに書いたの。
子供はこの話には満足しなかったけど、大人の読者はおそらくは一層満足しないだろうね。
話したあとで子供からいろいろ問われたので私はまたやむことを得ずに、いろいろなことを答えたけど、
困ったのが、寒山が文殊で拾得は普賢だと言ったために、
「文殊と普賢ってなあに?」
と問われ、それをどうかこうか答えると、
こんどは、なんで文殊が寒山で、普賢が拾得なのかわからないと言われて困った。
私は、近頃の世間の例で説明したら、幾らかわかりやすかろうと思って、
そんな感じで言ってみたけど余計わからなくなってドツボにはまり、万事休す。
最終的に
「実はパパも文殊なんだけど、まだ誰も拝みに来ないんだよねー」
とか言ってみちゃったりなんかして。
終始噛み合わず、最終的にオヤジギャグみたいになってお子さんもポカーンな感じですが。
パパとちびっこのやりとり可愛いですよね。
前回にさらっと触れたように、来たるべき国際時代に向けて我が子に西洋風の名前をつけ「元祖キラキラネーム」とかいじられる森鴎外ですが、
子どもたちに自分のことは「パパア」と呼ばせていたようです。
大正時代にパパ呼びは森家だけだったのかもですね。
そんなわけで、森鴎外「寒山拾得」でした。
日本文学シリーズは不定期でお送りします。
それでは、寒山拾得の真の姿?普賢菩薩と文殊菩薩でお別れです。
ちなみに豊干は実は釈迦如来で、3人合わせて釈迦三尊になるとか、ならないとか。
次回もよろしくお願いいたします。
なお、このブログは、気になったことを調べ、学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。
ソースは主にWikipediaなどになりますので、学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。
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文章構成と誤字脱字を修正しました。
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