歴史 軍師列伝

79 みんなだいすき三国志 軍師列伝1 諸葛亮孔明 前編

ごきげんよう、ハゲと天パです。
今回からは新シリーズをお送りします。

みんな大好き三国志。
3世紀頃の古代中国を舞台に、
魏・呉・蜀の三国が鼎立し熱いバトルを繰り広げるお話です。

そんな三国志、それぞれの国の王となる3名や、
様々なスター武将もたくさんですが、
三国志に欠かせないのが国をサポートし、戦を動かす軍師の存在。

本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
3国のメジャーな軍師を3名ずつ、
基本的に独断と偏見のセレクトで紹介していこうと思います。

第一回は、日本においてもおそらく一番メジャーで人気の天才軍師
諸葛亮孔明です。
さもありなん、さもありなん。


諸葛 亮(しょかつ りょう)は、
言わずと知れた中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。
生没年は、181年生まれ、234年8月末に没。
姓は諸葛は諱で字は孔明(こうめい)です。

三国志系や古代アジアネタの場合、
たいがい、字(あざな)と諱(いみな)が出てきますが、
普段、人を呼ぶ時に使うのが「字」、
「諱」は生前は口にすることをはばかる実名だそうです。

生きている人に対して諱でその人を呼ぶことは、
親や主君といった関係のみに許されるんだそうで、
そういった人以外が諱で呼ぶことは極めて失礼にあたるので気をつけてください。

ちなみに、死後にその人を尊んで贈る 諡(おくりな)というのもありますが、
これは帝王や相国といった貴人に対して、生前の事績への評価に基づいて贈られる名前になります。
功績が華やかな帝王には良い漢字、
暴君やいまいちパッとしない王様には、しょっぱい漢字が贈られます。

私は諸葛亮孔明さんの親でも主君でもないので、これからは孔明と呼ぶことにします。

さて、孔明に話を戻しましょう。

孔明といえば、三国鼎立したうちの一国、
(蜀漢)の建国者である劉備玄徳の右腕としてめっちゃ働き、
その子の劉禅の丞相としてよく補佐した有能です。
ちなみに丞相は総理大臣的なポジションです。


孔明

生い立ちとライジングまで。

まずは軽くプロフィール。

孔明は、それまで中国を支配していた後漢王朝が衰退しつつある西暦181年、
徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)に
国の役人を務める家に生まれます。

伝わるところによると、身長が8尺
後漢の頃の1尺は23cmなので8尺は184cm、
魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになりますので、
頭はいいし背も高い。

頭もいいし、背も高い

諸葛さんは中国では珍しい二文字姓ですが、この諸葛さんは代々国の役人をしているお家。
前漢元帝の時代、朝廷内の大臣や皇帝の親族を監察する役職「司隷校尉」を務めた諸葛豊を先祖に持ちます。

ちなみに孔明の時代は漢という王朝が支配していた時代になりますが、
漢王朝は一旦滅びて再興しており、
紀元前206年から8年までを前漢、紀元後25年から220年までを後漢といいます。

孔明のお父さん、諸葛珪も泰山郡というところの丞(郡の副長官)を務めた人物ですが、
お父さん、さらにお母さんも孔明が幼い時に亡くなり、
叔父の諸葛玄に育ててもらいます。

諸葛玄おじさんも有能なので豫章というところの太守(長官)に任命され、
赴任に伴って徐州から弟の諸葛均と共に南方へ移住します。

ちなみに、孔明は3人兄弟の真ん中。(4人兄弟とも)
お兄ちゃんは呉に仕えた諸葛瑾。
彼は年が離れたお兄ちゃんだったのでお父さんが亡くなった時には独り立ちしていました。

諸葛玄おじさんは、地域の有力者の袁術に任命されて太守になったのですが、
朝廷からは別の人が太守として送り込まれるという「聞いてないよ!」状態。
政争に敗れ、追われる身となります。
そして気の毒なことに、諸葛玄は逃れたものの民衆の反乱により命を落としてしまいます。

おじさんを亡くし、頼るところが亡くなった孔明は、
荊州で晴耕雨読の自給自足の質素な生活を送ります。

裕福な役人の家に生まれながら波乱万丈で、
ついには自給自足の野良仕事。と悲しい状況ですが、
晴れた日は畑を耕して農業に勤しみ、
雨が降ったら勉強に励むという生活は、
孔明にとっては苦ではなく、気に入って楽しんでいたようです。

ちなみに荊州は勉学を熱心に推奨し、
高名な知識人も多くいる土地柄で、学び知識を身につけるのに適した土地でした。
孔明も水鏡先生と呼ばれる司馬徽という人に学んでいます。

孔明はその頃、
自分は古代の偉人で名政治家の、
管仲楽毅 レベルじゃね?と思い、よく周りに吹いていましたが、
周りの人達は単なるスローライフ兄ちゃんとしか見ていなかったので、
まあ、「あいたたた」と思われていました。

しかし、わかる人にはわかるもの、
学友だった崔州平徐庶、師匠の司馬徽だけが孔明の才能を認めていたそうです。
彼らがつけたあだ名が「伏龍」や「臥龍」。
「あいつは眠っている龍だ、今は活躍していないけど、恐ろしいポテンシャルを秘めてやがるぜ。ゴクリ。」
という感じです。

清代の『宮殿蔵画本』に載る諸葛亮の絵
帰属:著者不明著者不明, パブリックドメイン, via Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E8%9C%80%E6%B1%89%E4%B8%9E%E7%9B%B8%E5%BF%A0%E6%AD%A6%E4%BE%AF%E8%AF%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE.jpg

またこの頃、孔明は地元の名士の黄承彦の娘、黄月英と結婚しています。
おめでとう。

黄承彦は誠実な人柄で、
孔明がお嫁さんを探していると聞き、
「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」
と言って結婚を勧めたそう。
もうちょっとオブラートに包んであげて欲しいですが、正直な物言いに誠実さが出ています。

孔明は快諾して結婚。
周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたといい、
これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになったという逸話もあります。
今のコンプライアンスでは確実にアウト、炎上不可避です。

黄夫人は金髪で小麦色の肌だったそうで、
見た目は今で言えばギャルです。

当時の基準からすると美人ではなかったようですが、
大変に聡明で結婚後は頻繁に孔明の相談相手となり、
ときには的確なアドバイスをしたりと孔明をサポート。
夫婦仲も良かったそうです。
ギャル全然良いよね。


孔明

三顧の礼。


さてさて、
そんな感じで孔明がスローライフを楽しんでいる頃、
西暦200年の建安5年、
中国の北の方では
世界屈指のしごできおじさん曹操が、
名家出身の実力者、
袁紹を打ち破って覇権を手中にし、
南進の機会を窺っていました。

そんな情勢の中、
貧しい境遇から人柄でライジングしてきた劉備は、
それまで身を寄せていた袁紹の陣営を離れ、荊州の劉表を頼ります。

劉備はもともと、むしろやわらじを作っては売って生活していたのですが、
実は漢王朝の末裔という出自であり、
また、町の親分的な義侠の人でもあり、
群雄割拠の乱世に漢王朝の再興を目指し挙兵して今に至る。という感じです。

戦ったり負けたりを繰り返し、あちこちを転々としていましたが、
劉表に居城を貰って北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)を拠点に活動。


孔明は引き続き晴耕雨読の日々を送っていましたが、
友人の徐庶が劉備の下に出入りしており、孔明のことを劉備に話します。
徐庶も有能で劉備の軍師として働いていたのですが、
曹操にお母さんを人質に取られ、泣く泣く魏に下り、劉備陣営を離れることになるかわいそうな人です。
その別れの際に、後任として孔明のことを劉備に教えたそうです。

劉備陣営には関羽張飛の腕っぷし義兄弟、趙雲などの超強い武将がいるものの、
彼らをまとめて運用できるブレーンに乏しく、
ポテンシャルはあるのにパッとしない状態。

優秀な人材をとてもスカウトしたい劉備は、徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼みます。
しかし徐庶は
「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではないっす、いっちょ直で行ったほうがいいっすね~。」
とアドバイス。
正直なのか、なにか思いがあったのかはともかく、
お互いのハードルを上げていきます。

徐庶



このとき、劉備は40代のミドル、孔明は27歳の若造。
当時の感覚では、年齢や身分が上の人が自分からお願いに行くとかまず無い状況、
そんじょそこらの偉い人なら「そんなことできるか!」とプンプン案件ですが、
さすがは人徳ライジングの劉備は、
もちろん私が行きますよ!と、孔明の家にお願いに行きます。

1回目は行ってみたものの留守。
2回目は雪の中行ったのにまたもや留守。
3回目ともなると関羽や張飛もイライラしだしますが、やっとこさ孔明に会えます。
アポとっとけば良かったのにね。

これがいわゆる「三顧の礼」です。


孔明的にも「わざわざ3回も来てくれた!」というところにも心を打たれ、劉備陣営に参加します。
その時劉備に説いたのが、いわゆる「天下三分の計」

現在の状況としては、曹操の魏が勢力強く、しかも漢の皇帝まで掌握している状態。
まわりの諸侯や国も降伏し、その傘下に次々と吸収されています。
それに対抗できそうなのが南部の有力勢力、孫家が治める呉で、
力の差はありますが二強状態です。
「魏の曹操・呉の孫権と当たることを避けて、まずは荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきです。」
と持論を展開し、この計略をすすめます。

これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認め、左将軍掾(主任)に起用。
孔明は劉備軍加入後、真っ先に曹操の侵略を抑えることを最優先とします。

加入前の劉備軍は統制が弱かったものの、孔明が陣頭指揮に立ってからは規律を第一とし、
真っ先に曹操の攻撃を抑えて堅く守り切り、その間に颯爽と勢力を固めていくことになるのでした。


はい、前半はここまで。
後半からは「働く孔明編」。
死ぬほどいっぱい働きます。

諸葛亮 孔明

なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。

ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。

興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。




参考:
諸葛亮-wikipedia
漢-wikipedia

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