歴史 軍師列伝

88 みんなだいすき三国志 軍師列伝9 司馬懿仲達

2024年8月14日

ごきげんよう、ハゲと天パです。

みんな大好き三国志。
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる三国志。
数多の英雄たちが駆け抜ける三国志。
そんな三国志に欠かせないのが、
国と戦を動かす軍師の存在。

本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。

今回で三国志軍師紹介も最終回、
第9回は三国時代を終わらせる男。
魏の司馬懿(しば い)です。
最後を飾る三国志のラスボス的な存在です。





司馬 懿(しば い、179年-251年9月7日)、
中国後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家。
字は仲達(ちゅうたつ)。


司馬懿

三国志の最後、謎問題。

三国志は日本でもおなじみでご存じの方も多いですが、
最後の方はわりとぐだっとなるのでドラマ的にはスルーされることが多いですよね。
だいたい、孔明だったり劉備だったりといった主要人物が亡くなるタイミングでの思い出振り返りエンドや、
その後~ のモノローグ でさらっと締められたり、
はたまた、語り部的な、謎のおじいが子供に語り聞かせてホッホッホ。なエンドになりがち。
「結局3つの国は最後どうなるんだっけ?」という方も多いのではないでしょうか。

わざわざこのブログを読んでくれている方は、
おそらく「そんなの知ってる事案」かとは思いますが、
魏・呉・蜀、全部滅びます。
そして魏陣営から急に出てきた人物の一族が天下を統一します。
割となんじゃそらエンドですよね。

統一したその国が「(しん)」です。
なお、一時滅亡し、別系統の人が再興して別の晋(東晋)が建てられることになるので、
区別して西晋とも呼ばれます。
そして、西晋の礎を築いたのが今回の主人公 司馬懿。

司馬懿が簒奪して皇帝になったわけではありませんが
魏において功績を立て続けて大権を握り、
三国時代の終焉に至る道を作りました。



司馬懿

名門司馬家と世に出るまで。


三国志の時代にも「名門」と呼ばれる家がいくつかありますが、
司馬家もその一つ。
その字の通り、馬を司る→軍事を司る司馬という官職が家名の由来で
その子孫が司馬の氏を使うことが多いといいます。

ちなみに、
2020年の中華人民共和国の統計では「司馬」が7番目に多い姓で、その数は2.3万人。
なお、台湾では676番目に多い姓で54人と、台湾では珍しい姓のようです。(2018年の統計)


司馬懿の家は河内郡温県孝敬里の出身で、
大昔、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王 司馬卬 の系統。
代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄です。
司馬懿は司馬卬の12世孫にあたるといいます。

お父さんは県令や首都近郊の行政長官、京兆尹も務めた司馬防
質実剛健、寛いでいる時も威厳を崩さない厳格な人で、
8人の息子たちは成人した後も、
言いつけがなければ部屋に入ることも、座ることも、発言することも許されなかったそうです。
パパの教育方針厳しすぎ。

この8人兄弟ですが、
司馬朗(伯達)、司馬懿(仲達)、司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)
司馬恂(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)
という名前で、ご覧の通り司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、
全員優秀だったので「司馬八達」と呼ばれたそうです。
なおこの八達、「達がつく8人」と、「8人の達人
をかけてうまいこと言っているそうで、おしゃれですなあ。


次男の司馬懿は優秀ぞろいの司馬八達の中でも最も優れた人物といわれ、
若い頃から特に聡明で高く評価されていました。
内心嫌だなという時も表面上は穏やかに振る舞い、疑り深いが臨機応変に動ける子だったそうです。
もうこの時からラスボスの片鱗が出ています。


司馬懿

曹操への出仕。


201年、司馬懿は河内郡の事務処理関係のトップに推挙。
当時、最高位に位置する3つの官職の一つ「司空」だった曹操は、
司馬懿のことを聞き、その出仕を求めます。

司馬懿は漢は衰退してるんで今更だし、
そもそも「司馬」より格下の「曹」に屈するのもなんだかなあ。と思っていたいので、

リューマチでしんどいんで無理です。

と辞退します。
ちなみに当時は、名士が高官の招請を断ることは一種の流行となっていたそうです。
謎のブームに乗った感もありますが、やんわりお断りしています。

なお、司馬懿の出仕についてはエピソードがあり、
司馬懿が体調不良を理由になんやかんや断ってくるので、
「どうせ仮病やろ。」と思った曹操、
夜に人をやって刺させるというドッキリを敢行したといいます。
仮病と思っても刺したらダメです。

なお、司馬懿は臥したまま身動きを取らなかったそうですが、
その後、丞相となった曹操が、
またためらうようであれば、捕らえてでも連れてこい
と命令したため、やむを得ず出仕したとか。(「晋書:宣帝紀」)


217年、曹操は息子の曹丕の教育係に任じられます。
曹操は司馬懿に対して、

「こいつ、ちょっと鋭すぎてヤバイかも。」

と内申警戒していましたが、
ジュニアの曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っていました。
司馬懿の方も、軽挙な行いを慎んで曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るに至り、
陳羣・呉質・朱鑠とともに「太子四友」と称されたそうです。
実際、司馬懿は陳羣に次ぐ第二席を占めています。

219年には、関羽が荊州から北上して攻撃しよう目論みます、
首都の許昌以南では関羽に呼応する者が相次ぎ、
さすがの曹操も狼狽し遷都しようかという議論も上がりました。
しかし司馬懿はそれに反対、さらに孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すことを献策。
この策は見事に成功を収めました。


司馬懿

曹操の死後と蜀との戦い。

220年に曹操が死去。
司馬懿は遺体を鄴に運び葬儀を主催することを曹丕に命じられます。
曹操の跡を継いで曹丕が魏王に即位すると、
司馬懿は河津亭侯に封じられ、丞相長史となりました。

同年、献帝からの禅譲を受けて曹丕は魏の皇帝となり、司馬懿を尚書とします。
司馬懿は、呉に向けて自ら征伐に赴く曹丕の留守を守っていましたが、
224年には撫軍大将軍に叙せられ、5000人の兵権を与えられました。
「いやいや、負担が大きすぎて死んじゃう。」
と司馬懿は辞退しますが、受けざるを得ない空気でしぶしぶ引き受けます。

226年、40歳の若さで曹丕が崩御、その子の曹叡が皇帝に即位しました。
曹丕の遺言で曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託されました。
朝廷内の権力闘争によりお母さんが誅殺されたこともあって、
曹叡は長らく宮廷から遠ざけられていたので臣下たちとはほとんど面識がなく、
父の代からの重臣であった司馬懿や陳羣らを引き続き重用し、政事にあたらせました。

司馬懿は同年、襄陽に侵攻した呉軍を破り、
この功により驃騎将軍に昇進。
魏陣営ランキング第三位の軍人となります。


228年には、かつて劉備の元から出奔し魏に寝返った孟達が、
諸葛亮と内応して魏に叛きます。

諸葛亮は孟達に司馬懿を警戒するよう伝えていましたが、
まあ、司馬懿のいる宛城は孟達のいるところからかなり遠いし、
孟達でも十分対処できるだろうと考えていました。

司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を躊躇させた上で、
昼夜兼行の進軍を強行し、普通なら1ヶ月かかる道のりをわずか8日で到着
城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反されます。
司馬懿は攻城16日間で城を陥落させ、孟達を斬首。

この電光石火の対処に諸葛亮ら蜀漢サイドは震撼。
おおいに動揺し、北伐に関する戦略の幅は大きく狭められることとなりました。

230年、大将軍に昇進。
翌231年には、蜀漢に対する戦線の総司令であった曹真の死に伴い、
司馬懿はその後任として諸葛亮と対戦。(祁山の戦い)

しかし積極的な攻撃は行わず、陣地に立てこもったままだったので、
武将の張郃が、
大軍が近くに到達しておきながら、
包囲されている祁山の魏兵を救わないのどういうつもり!?

とプンスコプンプンで司馬懿を非難してきます。
司馬懿は大いに悩みますが、状況を制しきれず、張郃と共に出撃。
いわんこっちゃなく大敗。

またこの年は不作だったうえに諸葛亮に麦を刈り取られ、
魏軍は兵糧が尽きてダブルパンチ。
おのれ孔明。
一方、蜀漢軍も長雨により食糧不足に悩まされており、持久戦の後に撤退を開始しました。


3年後の234年、諸葛亮が5度目の北伐を敢行。(五丈原の戦い
この戦いで司馬懿は防衛に徹し、
途中、諸葛亮の陽動にのせられ、あらぬ方向に軍を進めてしまったりと翻弄されますが、
五丈原にて司馬懿と諸葛亮は対峙を続けます。

諸葛亮は屯田を行って持久戦の構えをとったものの、
戦場で病死、蜀漢軍は撤退しました。
蜀漢軍が退却したのち、司馬懿はその陣跡を見るや
諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたそうです。

大人気の諸葛亮孔明

「漢晋春秋」によると、司馬懿は撤退する蜀漢軍に追撃をかけようとしたものの、
蜀軍が魏軍に再度攻撃するフェイントを見せたので、
孔明、生きとったんか?ワレ!?」と退却。
その事で人々は「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言ったそう。

ある人がこの話を司馬懿に報告すると、
私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない。
と答えたそうで、誰がうまいこと言えと。

235年には、蜀漢の馬岱が攻め込んで来ましたが、撃退させた。
また、西方の王も降伏させて三公の一つ太尉に就任。
魏の軍事面でのトップとなります。


司馬懿

公孫淵の征討。


238年には、遼東の公孫淵が反乱したので征討を命じられます。
曹叡が、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ねると

「公孫淵が城を捨てて逃れるは上策、
遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、
襄平に籠もるなら生捕りになるだけです」

と答えます。
その意を問われると

「知恵者ならば、城を捨てることも有るでしょうが、
公孫淵はそんな策を考えつける人物ではありません」
「往路に100日、復路に100日、戦闘に100日、その他休養などに60日を当てるとして、
1年もあれば十分でしょう」

と答えました。
納期も同時に答えることができるところがしごできです。

司馬懿が遼東に到着したころ、
長雨が続いていたため遠征がさらに長引くおそれがあり、
廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えましたが、
曹叡は
司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。
彼に任せておけば間違いはない。

と言い、取り合いませんでした。

魏の征討に対し、公孫淵は呉に援軍を求めます。
孫権は使者を殺害しようとしましたが、配下は恩を売った方が得策と進言。
そこで孫権は、
司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。
そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ。

と書簡を送りつつ、援軍を約束。

司馬懿は野戦で公孫淵が派遣した軍勢を破り、
公孫淵軍は籠城しますが兵は多く、食料は少ない状況。
司馬懿はこれを想定していたので
兵力が多く兵站の確保が難しいときにはある程度犠牲が出ようとも速戦でかたをつけるべきで、
逆に兵力が少なく兵站が安定している場合には持久戦を行うのがよい

と語り、その思惑通り、公孫淵軍の食料は底を尽きます。

公孫淵は使者を送り、人質を差し出して和議と助命を嘆願しましたが、司馬懿は拒絶。

戦には五つの要点がある。
戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。
お前は降伏しようともしなかったな。ならば死あるのみ。人質など無用である。


とキッパリ。
アウトレイジ感があります。


公孫淵は数百騎の騎兵隊を率いて包囲を突破して逃亡しますが、
司馬懿は追撃して斬殺。
城は陥落し遼東の制圧に成功しますが、
中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、
いつまた反魏の温床になるかわからないということで、
司馬懿は15歳以上の男子7000人余りを殺し、
さらに公孫淵の高官たち数千人も殺害するという苛烈を極める処置を行います。

この残虐な司馬懿の戦後処理は後世において筆誅の対象となり、
唐代に編纂された「晋書」では、
「王朝の始祖たる人物が、いたずらに大量の血を流したことが、
ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判されたそうです。


ちなみに援軍を約束した孫権により送られた呉軍は、
到着した時には既に公孫淵が敗死した後だったので、
遼東で略奪して引き上げています。
ひどすぎない?


司馬懿

権力闘争。


公孫淵征討の翌年の239年、
司馬懿が遼東から帰還する最中に曹叡は病に倒れます。
この際、司馬懿に長安へ戻るよう勅書が伝えられましたが、
その後、都の洛陽に戻るようにと曹叡直筆のおてがみが届きます。
今際の際に駆けつけた司馬懿に対して曹叡は、
曹真の長男曹爽と共に次代の帝 曹芳の補佐を託しました。

この曹爽、実は権力の独占を狙っており、
その画策により、司馬懿は名誉職に近い、太子の教育係である太傅に転任させられました。
ただし、軍権はそのままで、依然として対蜀漢の最前線を任されていたため、
曹爽が内政、司馬懿が軍事を分け合う形になります。
政治から遠ざけつつ、蜀との戦いで命を落とせばラッキー。
まあ、いざとなれば裏でうまいことやってゴニョゴニョ。という感じですね。
曹爽、ワルよのう。
ちなみにこの頃の司馬懿は駐屯地の農業を振興し、大いに名声を高めています。
しごできです。

この体制、当初は曹爽が年長の司馬懿を立てていたため、大きな混乱は見られませんでしたが、
次第に曹爽一派は増長し、事あるごとに司馬懿と衝突するようになっていきます。

246年の呉の侵攻では、曹爽は逃げて来た住民を帰すよう主張。
司馬懿は反対しましたが聞き入れられず、
司馬懿は部下に対し
「曹爽大将軍の命令ですんで。」
と告げて農民に帰還するよう命じさせますが、怒った農民達は後に退去し、魏は民を失うことになります。
また、呉の武将 朱然 の猛攻によって曹爽は1万人以上の兵を失い、惨敗を喫します。(柤中の戦い)


司馬懿

引退宣言からの。


247年の5月、司馬懿は病と称して政治から身を引きます。
しかし曹爽は司馬懿を警戒していたので、
部下の李勝に命じて見舞いと近況報告の名目で様子を探らせます。

司馬懿は、
お見舞いに来た李勝が言ったことを何度も聞き間違えたり、
お粥をボロっボロこぼすなど、
一芝居打って、ヨボヨボおじいちゃんぶります。

この様子を聞いた曹爽は安心し、
司馬懿への警戒心を緩めました。
その演技は迫真で「魏末伝」では、
李勝は司馬懿の衰えように涙を流しているそうです。
李勝、いいヤツやん。


そんなわけで、隠居していた司馬懿ですが、
249年1月6日、
曹爽が曹芳の供をして曹叡の墓参りに行くため洛陽を留守にした機会を見計らって、司馬懿はクーデターを起こしました。(高平陵の変)

司馬懿は郭太后に上奏。
曹爽兄弟の官職を解任する令を得、
次いで息子の司馬師・弟の司馬孚に洛陽の宮城を制圧させ、
郭太后の令を用いて洛陽の曹爽陣営を制圧、洛陽を制圧しました。

布陣した司馬懿、
免官するだけだよー。
と曹爽を説得して、戦わずして降伏させます。
曹爽本人やその一族に対しては、食事の買い出しすらできないほどの監視下において軟禁。
1月10日、曹爽らに謀反の企みがあったとして結局は一族郎党皆殺し、
合わせて、曹爽の腹心たちも一族もろとも処刑します。

このシリーズでも類を見ないシビアさです。
こんなことになるとは・・・


曹芳は2月に丞相の地位を、
12月には最高の恩賞「九錫」の下賜を打診しますが、
司馬懿はどれも固辞します。

251年、楚王曹彪を擁立して曹氏の実権を取り戻さんとする
王淩らによるクーデターを密告により察知。
司馬懿は証拠を握ると、硬軟両面で王淩を追い込み、降伏させます。
司馬懿が自分を殺すつもりであることを悟った王淩は自殺、曹彪もまた自殺を命じられます。
この事件の後、魏の皇族をすべて曹操時代の魏都であった鄴に軟禁。
互いに連絡を取れないようにします。

4月に司馬懿は都に戻りますが、
6月に病となり、8月に73歳で死去。
曹芳は相国と郡公を追贈しようとしましたが司馬孚は兄の意志であるとして辞退。
遺言どおり、司馬懿は薄葬で埋葬されました。

後に孫の司馬炎が魏より禅譲を受けて正式に皇帝となると、
祖父の司馬懿を高祖宣帝と追号しました。



司馬懿

狼顧の相。


司馬懿が遠大な志を抱いていると考えていた曹操は、
彼が「狼顧の相」を持つという噂を聞きつけ、
「おーい、司馬懿ー。」
と、背後から名前を呼んでみました。

すると、司馬懿は体を正面に向けたまま
首を180度後ろに捻って真後ろに振り向いたんですって。
ホラーやん。

本来「狼顧」というのは、
「狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと」を指す言葉であり、
曹操はなんか嫌な予感がしました。

また、以前曹操は「3頭の馬が1つの槽から餌を食べる夢」をみていましたが、
これはつまり、
3頭の馬→司懿と長男の司師、次男の司昭 が、
槽→曹が築き上げたものをたいらげてしまう。
という意味なんじゃねと繋がります。
名探偵かよ!

ともかく曹操はひどく嫌がり、
子の曹丕に対して
司馬懿は一臣下として終わる人間じゃないよ!
必ずやおまえの政事に関わってくるよ!パパ心配!

と語りますが、
司馬懿を重んじていた曹丕は、
「なーに言ってんだか。」と意に介さなかったそうです。
結果的にきっちりフラグを回収しているわけですが。


司馬懿

後世の司馬懿の評価。


司馬懿の死後、その権力を継承した司馬師と司馬昭は魏の皇帝を廃立し、
最終的に孫の司馬炎が禅譲を受けて皇帝に即位します。

司馬懿自身が生前に簒奪の意図を明示したという記録はありませんが、
後世の評価としては魏王朝の簒奪を考えていたとされることが多く、
悪役、ラスボス扱いされがちです。

後に西晋を滅ぼした一人である後趙の石勒は、
司馬懿が郭太后を利用したことを、
曹操が献帝を利用したことに引き比べて

大丈夫(立派な男性)たる者、磊磊落落、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、
曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)のように、
孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、
狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない


と、辛口に非難しています。
これ以降、司馬懿といえばずる賢い乗っ取り屋というイメージが出来、
歴代の評価を見てもほとんど高評価されていないようです。


唐の太宗が編纂させた「晋書」では、
おおむね司馬懿をけなす文章が多く、
東晋の明帝が西晋の成立過程を聞き
あーあ、こんな成り立ちじゃ、ウチの朝廷もどうせ長続きしないよねー。
と悲嘆したという話も載っています。

「隋唐嘉話」によれば、
病と老齢を理由に出征を辞退する家臣の李靖に対して太宗は、
「かつて司馬仲達も老齢で病に侵されてはいたが、
ついには努めて、魏で勲功を打ち立てたわけだから頑張りたまえ。」
と言ったそうです。
なお、これの真意は
「司馬懿は仮病をして、ついには魏を乗っ取ってしまったが、君はそうではないよな?」
ということだそうです。
本音も建前もパワハラですね。

明の王夫之は、
(同じ簒奪者として)曹操は数々の功績を打ち立てたが、司馬懿はそうではない。
曹操は乱世の中から天子を迎えて漢の社稷を蘇らせた(という名目がある)が、
司馬懿の乗っ取りは全く大義名分がない

と批判しています。(「読通鑑論」)


日本でも吉田松陰は、
君道と臣道を厳別し、その著書「講孟箚記」(「講孟余話」)の中で君道の上の教戒として

曹操・司馬懿、智術を揮ひて一時を籠絡すと云へども、
天下後世誰か其の心を信ずる者あらん。
名づけて姦雄と称し、永く乱臣賊子の亀鑑とす。
噫、畏るべきかな。
抑操・懿の如き臣あるは、皆人君の罪なり。
最も人君の恥なり。況や君に告ぐるの体、君をして戒懼の心を起さしむるを要とす。
何ぞ必ずしも此の章を削り去ることを用いんや。


と記し、乱臣賊子の見本として挙げ、
曹操や司馬懿のような臣下があるということは、
君主自身の罪であり君主にとって最大の恥であるとしています。
そんな寄って集って嫌わなくてもいいでしょうがと思いますが、ボロクソですわ。

そもそも誰が正義で悪というところではないですし、
まあ、ほっこりエピソードはないですし、
後半ドロドロでしたが、
私は司馬懿が好きですので最終回に紹介できてよかったです。
(まあ、最初からそのつもりだったんですけど。)

司馬懿



さてさて、個人的なセレクトで、三国志の軍師を紹介してきました。
また気が向けば、王道の武将紹介もいいかも知れませんね。
まあ、気が向けばね。


今回の軍師シリーズは全編にわたって6000~9000字と、
毎回暴走して長くなりすぎたので、
次回シリーズはもうちょっとライトに書いていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。



なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。

ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。


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