歴史 軍師列伝

87 みんなだいすき三国志 軍師列伝8 郭嘉奉考

ごきげんよう、ハゲと天パです。

みんな大好き三国志。
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる三国志。
数多の英雄たちが駆け抜ける三国志。
そんな三国志に欠かせないのが、
国と戦を動かす軍師の存在。

本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。

今回も魏の軍師を紹介。
第8回は、郭嘉(かく か)。
素行は悪いが頭はキレる。
曹操の秘蔵っ子軍師です。




郭嘉(かく か、170年 - 207年9月)は
中国後漢末期の武将・官吏。字は奉孝(ほうこう)。
豫州潁川郡陽翟県(現在の河南省許昌市禹州市)の人です。
荀彧とも同郡出身ですね。

優秀な人材揃いの曹操軍師団のなかでももっとも曹操に愛された軍師。
素行は悪かったそうですが、頭脳優秀でまるで未来からやってきたような先見性を持っていました。

郭嘉

曹操と運命の出会い。



郭嘉の幼少期のエピソードは残っていませんが、
若い頃から将来を見通す才能があり、
名前や経歴を隠して密かに英傑たちと交際を結び、
俗世間から離れて暮らしていたといいます。

そのため多くの人は郭嘉の存在を知りませんでしたが、
有識者の間では「郭嘉とかいうヤベえやつがいる。」と
名が知られていたそうです。
いわば、知る人ぞ知る天才、それが郭嘉でした。


そんな郭嘉も士官してみっかなと、
強大な勢力を誇っていた 袁紹の下を訪れます。

しかし袁紹とは合わなかったようで、
「あいつは昔の名宰相、周公の真似をしてへりくだってるけど、
人を使う機微がわかってない。
色々手を広げるけど肝心なところがおろそかだし、
策略が好きみたいだけど決断力がないからダメだね。覇者になるのは難いわ」

と、すでに袁紹に仕えていた同郡の辛評や、
おそらく一族と思われる郭図に、袁紹の欠点を言って仕官せずに去ります。
シェアNo.1の巨大企業に面接に行ったけど、
気に入らないから文句言って帰った感じです。

そして、いろいろな人にすぐけなされる袁紹かわいそう。
名門の出身でプライドは高いけど優柔不断な人だったようです。


一方その頃の曹操陣営、
郭嘉と同郡出身に戯志才という人物がいて、
曹操の策謀の相談役として尊重されていましたが、早くに亡くなってしまいました。
潁川郡、優秀人材多いな。

曹操は戯志才の後継者を誰にしたらいいかを王佐の才こと荀彧に相談。
荀彧は豊富な人脈からのリサーチ能力と発掘スキルを発揮して郭嘉を推挙し、
曹操は召しだされた郭嘉と天下のことを議論します。
その結果、「郭嘉、いいじゃない」となり、
「わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と言ったそうです。

また郭嘉も退出するなり
「真に我が主君だ!」と言って喜んだそうです。
気が合ったようで何より。
これには荀彧もにっこりです。

さっそく郭嘉を軍師祭酒(軍師たちの取りまとめ役)に採用しました。
いきなりの大抜擢です。

荀彧
郭嘉

郭嘉の軍才が冴える話。


その後、戦闘マシーン呂布から逃れてきた劉備が曹操の元に身を寄せると、曹操は劉備を豫州牧に任命。

ある人は、後のことを心配して劉備を排除するよう進言しましたが、
郭嘉は、
「高名な劉備を殺害すると、曹操の評判が落ち、賢者が仕官をことをためらうのでは?」
とそれに反対。
曹操も「郭嘉、わかってるねえ。」とに喜びます(「魏書」)。

しかし、一方「傅子」の記載では逆に、
劉備は雄才を備え、人心を得ている人であり、人の下で終わる人間ではないと判断。
早めに始末しちゃいましょう。」と進言しています。

結果的には劉備は独立して裏切ることになりますが、
早めに始末しようぜ。という方が狂犬ぽくて、
個人的には郭嘉っぽいなと思っています。


198年に曹操は呂布を討伐。
三戦三勝して呂布を籠城に追い込みましたが、
守りが堅く、呂布を攻めあぐねていました。

曹操は退却を決意しかけたましたが、
郭嘉は荀攸と共に攻囲を継続することを主張。(「荀攸伝」)
思い留まった曹操は沂水と泗水という大きな川の水を引き込み、
水攻めにして陥落させ、呂布を処刑しました。


その後、曹操が袁紹と一触即発の状況にあったとき、
袁紹のいとこで南の方を牛耳っていた袁術は、
北上して青州を仕切っている袁紹の息子袁譚と徐州で合流しようとしていました。

曹操は袁術に備えるため、徐州に劉備を派遣しようとします。
郭嘉は「あいつ絶対裏切るからダメですって!」と反対ましすが、
曹操は劉備を解き放ちます。
結局は上記の通り、いわんこっちゃなく劉備が背いて独立し、
曹操は後悔しました。(「武帝紀」)


郭嘉

官渡の戦い。


200年、南下を開始した袁紹と曹操は一大決戦に及びます。
いわゆる官渡の戦いです。

郭嘉もこの戦いに従軍。
曹操が袁紹と官渡で対峙している最中、
なんと南からは「江東の小覇王」こと孫策が、
曹操の本拠地である許都を急襲する構えを見せたます。
なんせ飛ぶ鳥を落とす勢いの「小覇王」ですので、
人々は「これはヤバイ!」と戦々恐々

しかし郭嘉は、
孫策が江東制圧を急ぐあまり、
苛烈な粛清を行なったため、
多くの人間から恨みを買っている、
にもかかわらず、イケイケなので、そのことを警戒してもいないことを指摘。
まあ、近いうちに暗殺されますわ。
と予測。
果たして孫策は、狩猟中に襲撃されて重傷を負い、これがもとで命を落とします。


袁紹との戦いにおいては、
河北において大勢力を有する袁紹はやっぱり相手としては脅威。
さすがに曹操も、どうしたもんかなと悩み、
郭嘉に対応を相談。

郭嘉は
殿には十の勝因がありますが、袁紹には十の敗因があります。
それは道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武です。
それは即ち、
「道」においては面倒な礼・作法に縛られる袁紹より自然体である殿が優れており、
「義」においては天子に逆する袁紹より奉戴を目指す殿が優れており、
「治」においては寛(締りの無さ)を以て寛を救おうとする袁紹より厳しい殿が優れており、
「度」においては猜疑心と血縁で人を用いる袁紹より才能を重んじる殿が優れており、
「謀」においては謀議ばかりして実行しない袁紹より殿が優れており、
「徳」においては上辺を飾る人々が集まる袁紹より栄達と大義を目指す殿のほうが優れており、
「仁」においては目に触れぬ惨状を考慮出来ぬ袁紹より殿が優れており、
「明」においては讒言が蔓延る袁紹より殿が優れており、
「文」においては信賞必罰な殿が袁紹より優れており、
「武」においては虚勢と数を頼みにする袁紹より要点と用兵を頼みにする殿が優れているのです。
ほら、負けてるとこないじゃん。勝てるでしょ?」

と語って勇気づけました。
これには曹操も、「いいじゃない、郭嘉。」とにっこり。


官渡の戦いでは、
強敵袁紹軍に対して曹操も
何度か心がくじけそうになりますが、
荀彧からのはげましのお手紙の効果もあって勝利します。

敗れた袁紹が病没した後は、
袁紹ジュニアの袁譚と袁尚が袁家の後継をめぐり争います。
曹操は内紛につけこんで袁譚・袁尚と黎陽で戦い、これを撃破。

一気に袁家を滅ぼそうぜ!という諸将に対し、
郭嘉は、
「袁紹は、袁譚と袁尚のどちらが後継者か指名しないまま死んだので、
放っておけば後継者争いを始めます
このまま攻撃してわざわざ両者を団結させなくてもいいでしょう。
南の劉表を討伐すると見せかけて変化が起こるのを待つのがいいっす。」
と語ります。

曹操は「いいじゃない、郭嘉。」とこの進言を採用して撤兵。
劉表を攻撃するため西平に出兵すると、
たちまち袁家は骨肉の争いを始めました。
してやったり。

なお、この後継者争いに敗れて落ち延びた袁譚、
使者を派遣して曹操を頼り、郭嘉が対応します。
曹操は袁譚の降伏を受け入れて袁尚を破り、本拠地の鄴を陥落させます。
そして、約束違反を咎めて袁譚を攻撃して斬り、
冀州を平定しました。
ひどい。
郭嘉は洧陽亭侯に封じられました。


郭嘉

白狼山の戦い、烏桓征伐と死。


戦いに敗れた袁尚は幽州の袁煕を頼りましたが、
幽州でも反乱が起き、敗れた袁尚らは北方の異民族、烏桓族の元へと落ち延びました。

曹操は袁尚討伐と烏桓征伐を計画。
部下の多くは劉表が劉備を使って許都を襲わせるのではないかと危惧しましたが、
郭嘉は

「やつらは自分達が遠くにいるのを良いことに防備を設けていないでしょう。
それにつけこんで不意をつけば、容易に壊滅できます。
逆にこれを放置したまま南征したりすれば、
袁紹に恩を受けた烏丸どもは兵を集め、平定するのが難しくなります。
そして、劉表は自分が劉備を使いこなす器でない事を自覚しているので、
重用する事はありません。
国中を空にして北方遠征に向かおうとも、心配することはありません。」

と言って懸念を打ち払い、その通り劉備も動きませんでした。


207年夏、曹操は烏桓征伐の軍を起こし、
烏桓の本拠地である柳城(現在の遼寧省朝陽市西南)に向けて進軍を開始。
郭嘉は

兵は神速を貴びます。
いま千里先の敵を襲撃するゆえ輜重(兵糧など荷物)は多く、
有利に彼地へたどり着くことは困難。
しかも奴らがそれを聞けば、必ずや備えを固めることでしょう。
輜重を残し、軽騎兵を昼夜兼行させて倍速で突出し、彼らの不意を衝くべきです」

と献策。
曹操は「OK、いいじゃない、郭嘉。
と、この策を採用します。

当時は長雨により、道が泥でぬかるんで通行困難になっていたうえに、
烏桓が曹操軍の進軍経路を予測して要道を抑えていたために、
大昔に崩落して使われなくなった間道を進んだりしながら、
長く過酷な行軍をひたすら続けます。


207年秋、曹操は大凌河の渓谷に達し、
烏桓のボス、蹋頓(とうとん)らも曹操軍の到達に気づいて、
すぐに袁尚・袁煕らとともに数万騎を率いて出撃。
両軍は白狼山で突然遭遇します。

このとき曹操軍は軽騎兵のみでしたが、
一方の烏桓軍は勢い盛んで曹操軍も大慌て。
斜面に追いやられた曹操は、張遼に指揮させ反撃。

張遼は関羽と張り合えるくらいめっちゃ強いので烏桓の軍勢は大いに崩れ、
蹋頓も捕縛され斬られました。
これにより、烏桓諸軍は壊滅し、多くが殺され、二十余万が投降。
袁煕と袁尚は、遼東太守の公孫康の元に逃亡します。


曹操軍の中では、「そのまま公孫康の討伐にいこうぜ。」という声もありましたが、
郭嘉は、公孫康が袁尚と袁煕の首を差し出すと読んで、
軍勢を引き返して南に備える事を進言。
曹操はそれを容れ、207年9月に柳城から帰還を開始します。

公孫康は、すぐさま袁尚と袁煕を殺してその首を曹操にとどけ、
袁尚らと共に逃亡していた烏桓の武将らも公孫康に殺害されました。
これにより袁家の勢力は完全に滅亡し、烏桓も破れ、残った烏桓も降伏。
その後、烏桓族は曹操に服属し、騎兵を提供するなど有力な兵力供給源となりました。


曹操軍が帰還を始めた時には、
季節はすでに冬にかかっており、非常に困難な行軍になります。
時には二百余里にわたって水がなく、軍はそのうえ食糧にも欠乏しており、
喉はカラカラ、お腹はペコペコ、病人も続出する有様でした。

曹操は帰還するなり、
烏桓討伐について諫言した者たちを手厚く賞し、

「私が行軍したとき、危険を乗り越えられたのもうまくいったのもラッキーだった。
獲るところは少なく、危険は実に甚だしかった。
諸君の諫言は万全の計略であり、それゆえ恩賞を取らせるのだ。
今後もそうした発言を渋る事のないようによろしくオナシャス。」

と言ったそうです。
曹操はこの戦いにより、黄河以北の地域を完全に統一、
北方の憂いを取り去った曹操は、
荊州の劉表、江東の孫権の征伐に向けて突き進んでいくことになります。


そして郭嘉ですが、
帰還の途中で病にかかります。
もともと体が強くなかったところに、無理な行軍が仇となりました。
そして柳城から帰還の後そのまま死去。
38歳の時でした。


病に伏せる郭嘉に曹操は頻繁に人をやってお見舞いし、
亡くなった時は
哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝
と言いその死を惜しんだそうです。

曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、葬儀において荀攸らに向かって
「諸君はみな、わしと同年代だ。
郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。
天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだった。」
と残念がりました。


建安13年(208年)、曹操は赤壁の戦いにおいて、疫病に苦しめられ、
船を焼いて撤退しました。
この時も
「もし奉孝がいてくれたなら、このような負け戦はしなかったろうに」
と嘆いています。



郭嘉は物事に深く通じていて、的確な見通しを持っていたので、
曹操から
わしの真意を理解しているのは奉孝だけだ
と絶大な信頼を寄せられていましたが、
模範的行動に欠くところがあるとして、
陳羣はこれを理由によく郭嘉を弾劾したそうです。

しかし郭嘉が全く意に介さず、曹操も郭嘉の才能を愛していたため、彼を重用し続けました。
またその一方で、曹操は公正な陳羣の才能も同じく愛したんだとか。
やさしい世界、尊い。


また、三国志の編者である陳寿も、
郭嘉を程昱・董昭・劉曄・蔣済と並べて、
荀攸と同じく謀略に優れた策士だったが、
荀攸と違って「徳業がなかった」と評してます。

曹操は郭嘉の死後しばらくして、荀彧に手紙を送り、
再び郭嘉の死を悼むとともに、
「郭嘉はわしと軍略を論じる時は、
南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、
天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。
彼の計略は真心から出たものではなく、
命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。
それほどの心で仕えていたのに、どうして彼の事を忘れる事ができようか。」
と記していたそうです。

曹操がいかに郭嘉をかわいがっていて惜しんだかがわかるエピソードですが、
荀彧からしたら「気持ちはわかるけど、なぜ私に送ってきたの?」って感じですよね。


小説「三国志演義」でも、郭嘉は天才的な洞察力を持つ軍師として描かれており、
荀攸や董昭ら他の軍師たちが正史よりも活躍を減らしている一方で、
いわば敵役扱いになる魏の人物でありながら優遇されています。



なぜ曹操は郭嘉を気に入り重用したのか。
それは郭嘉が儒教OSでなかったからと考えられています。

荀彧や荀攸たちは考え方や価値観が儒教に基づいており、
あくまで漢王朝の天子を助け復興させるためという目的であり、
礼儀や家柄、主従関係を重視した考え方、いわばお固い感じ。

しかし郭嘉は儒教という既存の価値観にとらわれず、
自由な発想で作戦を立て、献策することができたわけで。
それゆえに「素行が悪い」と言われたわけですが、
実力主義で能力を重視する曹操がまさに欲しい人材だったのでしょう。

郭嘉



そんなわけで郭嘉回でした。
曹操をして天下のことが片付いたらあとは郭嘉に任せたかった。と、
早すぎる死を悔やまれた郭嘉。

曹操に出会うまでは野に潜み、
天才的な軍略と洞察でライジング。
そして惜しまれつつ早逝。
諸葛亮と龐統のいいとこ取りじゃないか!


三国志あるあるの、「早死にする天才多すぎ問題」、
そのはかなさもドラマではありますが、
長生きしてより活躍した未来も見てみたかったものです。


三国志軍師紹介シリーズもいよいよ次回が最終回。
ラストは三国志のラスボス(?)の登場です。



なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。

ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。

興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。



参考:
郭嘉-wikipedia
官渡の戦い-wikipedia
白狼山の戦い-wikipedia


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