ごきげんよう、ハゲと天パです。
みんな大好き三国志。
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる三国志。
数多の英雄たちが駆け抜ける三国志。
そんな三国志に欠かせないのが、
国と戦を動かす軍師の存在。
本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。
三国志軍師紹介シリーズ最終章、
魏の軍師達の紹介に入ります。
第7回は魏の曹操の名参謀、王佐の才荀彧です。
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荀 彧(じゅん いく)は、中国後漢末期の政治家。
字は文若(ぶんじゃく)。豫州潁川郡潁陰県(現在の河南省許昌市)の人です。
若い頃から才名をうたわれ「王佐の才」と称えられました。
後漢末の動乱期には、朝廷の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、
その覇業を補佐。
小説、三国志演義においても曹操の懐刀として登場。
事あるごとに曹操に助言・策略を授けています 。
●荀彧文若、その生涯と活躍。
すごいよ、荀ファミリー。
「荀」のファミリーネームをもつ荀彧ですが、
諸子百家としても有名、性悪説を唱えた 荀子 の子孫だそうです。
おじいさんの荀淑は荀子十一世の孫とされ、儒学に精通。
朗陵県令となりましたが、当時の朝廷を牛耳って暴れていた梁冀一族を批判。
清廉な道を貫いたため、極めて名が高く「神君」と呼ばれ尊敬を集めました。
大変高名で民衆からも慕われ、亡くなったときには村人総出で祠を建てたといいます。
荀淑には8人の子供たちがおり、
彼らはいずれも評判がよく、「八龍」と称されたました。
荀彧のお父さんは次男の荀緄で済南国の宰相になったひとです。
荀ファミリーで荀彧と同時代に活躍した人物としては、
叔父さんで、役人の最高位、司空の地位まで上がった荀爽、
荀彧の年上の甥っ子にあたる荀攸は同じく曹操に仕えました。
荀彧の兄弟には荀衍(じゅんえん)・荀諶(じゅんしん)、
従兄の荀悦(じゅんえつ)も荀彧や荀攸と同様に名声を博し、
陳羣や孔融といった人々は、彼らを称えて、
「汝・潁地方の人物で彼らと匹敵できる人物はいない」と称賛したそうです。
「荀氏家伝」という荀ファミリーを紹介する本も出ているくらいなので、すごいですね。
荀彧のキャッチフレーズといえるのが、
「王佐の才」と言う言葉。
名士で後漢の有名な政治家、何顒(かぎょう)による人物評にて称えられました。
王佐とは徳治を旨とする王道を行なう君主を補佐することで、
王を補佐し、覇業を達成する才能があるという意味。
荀彧、曹操と出会う。
永漢元年(189年)、董卓が劉弁(少帝)を廃して劉協(献帝)を帝位につけた後、
宮中の紙・墨・筆などの管理職となりますが、
董卓の乱が起こると転職を願い出て許され、
そのまま官を捨てて潁川に帰りました。
その後、戦乱の到来を予感し、
一族とともに友達が治めていた冀州へ逃れますが、
辿り着いたときには、袁紹によって冀州を奪われていました。
友達かわいそう。
兄弟の荀諶や同郷の仲間たちは袁紹に仕え、
荀彧も高待遇で迎えられましたが、
「袁紹は大業を成すことの出来ない人物だ」と判断。
このころ曹操は、奮武将軍として東郡にいたので、
荀彧は袁紹の元を去って曹操の元に赴きます。
荀彧を迎えた曹操は「わが子房である」と大いに喜びます。
子房とは前漢の張良子房の子房であり、
お花の種ができる部分のことではありません。
漢を建てた劉邦が智者の張良を幕下に加えて覇をなしたことになぞらえたんだそうです。
初平2年(191年)、荀彧が29歳のときのお話です。
ちなみに三国志演義では荀彧の初登場は第十回。
潁川の清流派の若きホープ荀彧が、甥の荀攸と共に、初平三年(192年)、
最初つき従った袁紹のもとを離れ、曹操の傘下に入ります。
荀彧を得た曹操は彼の王佐の才を見抜き、
「きみこそ、わしの子房(張良)だ」と、大いに喜びます。
その期待にこたえて、荀彧はさっそく程昱・郭嘉などの知識人を曹操に推挙し、
その政権の基盤を固めました。
炸裂!王佐の才。
後漢末期、朝廷を牛耳り大暴れしていた董卓軍は、
荀彧の予測通り潁川を蹂躙、多くの者が殺戮されることになります。
曹操に董卓への対策を尋ねられた荀彧は、
董卓が自滅することを予言し、その通りとなります。
やがて、曹操は兗州牧となり、鎮東将軍にも任じられます。
荀彧は幕下としてつねに随行。
曹操が徐州の陶謙を攻めたときには、
荀彧は程昱と共に曹操の根拠地である兗州の留守を任されます。
しかし曹操の留守中に曹操の盟友であったはずの陳留太守張邈と陳宮が、
三国志最強の戦闘マシーン 呂布 を引き込んで謀叛を計画。
荀彧の守る城には張邈から
「呂布が曹操の援軍にやって来たので城を開けてくれ」
と使者がやってきましたが、
荀彧はすぐに謀反を見破り、
東郡太守で曹操の宿将、夏侯惇の元へ使者を送って合流させます。
このころには兗州の大半が呂布らに呼応して曹操に敵対しており、
手元に残された留守の兵力はわずか、
しかもほとんどの軍吏が呂布らに内通している状態だったのですが、
荀彧は呼び寄せた夏侯惇に軍の反乱分子を一掃させ、反乱の芽を摘みます。
また、隣国の豫州刺史の郭貢が数万の兵士を率いて荀彧の元を訪れたので、
直接面談し郭貢を中立な立場にとどめることに成功したり、
曹操に味方していた范・東阿の支持を確実なものにするなど、
曹操陣営に残った三城を曹操の帰還まで死守します。
曹操は徐州の陶謙が病死したことを知ると、
徐州を再び攻めると言い出しましたが、
荀彧は
「高祖・光武帝が天下を取れたのは自分の根拠地をしっかり治めたからですよ。
まず根拠地である兗州をしっかり治めるべきです!」
と諫め、さらに徐州が簡単に攻め取れない事情と、
呂布の軍は兵糧さえあればあと一歩で打ち破ることができる状況であると述べました。
曹操はこれを受け入れ、兵糧が集まると再び呂布と対決してこれを破り、兗州を平定。
また、劉備に官職を与えて見返りに呂布を討たせる
「二虎競食の計」「駆虎呑狼の計」といった奇計を編み出しています。
かっこいいので言ってみたいです。
建安元年(196年)には献帝が長安を脱出し、洛陽に逃れてきました。
荀彧は曹操に対してこれを迎え入れるべきだと献言し、
曹操はこれを受け入れて献帝を迎え入れます。
この功績により曹操は大将軍となり、荀彧は侍中・尚書令となりました。
荀彧は常に中枢にいながら厳正な態度を保ったとされ、
曹操は出征して都の外にいるときでも、
軍事と国事に関する全てのことを荀彧に相談しました。
人材発掘のプロ。
あるとき、曹操が荀彧に
「君に代わってわしのために策を立てられるのは誰か?」
と聞くと荀彧は
「荀攸と鍾繇です」と答えたので荀彧が忙しい時は常にその二名を幕僚としました。
また、曹操が策謀を相談できる相手として戯志才を推挙し、その死後は郭嘉を推挙しています
清流派の名士であったその人脈や人物眼から、
官僚の推挙や人材発掘に力を発揮し、
荀彧が発掘した人材としては、
荀攸・荀悦・鍾繇・戯志才・郭嘉・陳羣・杜襲・辛毗・趙儼、司馬懿・郗慮・華歆・王朗・杜畿とそうそうたる顔ぶれです。
登用した人材で大臣に昇る者は十数人を数えたとされ、
彼が発掘した中で大成しなかった者は地方任務のときに命を落としてしまった人くらいだそうです。
官渡の戦いでめっちゃ励ます。
曹操は呂布や張繡ら周囲の群雄と争いつづけていましたが、
中でも袁紹の存在は脅威でした。
曹操が張繡に敗北したとき、袁紹は曹操を見下して礼を欠いた手紙を送ってきます。
わざわざ煽ってくるタイプです。
激おこでプンスコプンする曹操を見て、
人々は、「張繡に敗北したからだわ」と見ていましたが、
荀彧だけは曹操の心を看破し、
曹操の長所と袁紹の短所を並べて説明し、曹操を励まします。
曹操は、袁紹が蜀の地を得れば、自分はとうとう対抗できなくなるのではないかとい心配していましたが、
荀彧は
「関中の頭目は十以上いますが1つになることは不可能です。
韓遂と馬騰一族が最も強いのですが、彼らは山東で戦争が始まったのを見れば、
各自軍勢を抱えたまま自分の勢力を保とうとするに違いありません。
今、もし恩徳によって彼らを慰撫し、
使者を使わして同盟を結べば長期間にわたって安定した状態を保つことはできなくとも、公が山東を平定なさる期間ぐらいは十分釘付けにしておけます。
鍾繇に西方のことをお任せになれば、公のご心配はなくなります」
と言ったので、曹操はそのとおりにしました。
鍾繇は荀彧の期待に応え、巧みな外交によって関中を安定させました。
建安3年(198年)、曹操は張繡と呂布を破り、袁紹と本格的に敵対します。
荀彧は袁紹陣営の人物それぞれの弱点を事細かに説明。
「袁紹軍は兵数は多いが軍法は整っていない。
顔良と文醜の二枚は勇と言うよりか暴に依る大将であり、策略を使えば一度の戦いで生け捕りにできる。
田豊は強情で上に逆らい、
許攸は貪欲で身持ちが治まらない。
審配は独断的で計画性がなく、
逢紀は向こう見ずで自分の判断だけで動く」
だから大丈夫ですよとモチベーションを上げます。
実際に建安5年(200年)の官渡の戦いでは、
荀彧が言った通りの経緯を示し、
顔良と文醜は荀攸の策にかかって敗れ、
田豊は袁紹に気に入られずに本戦前に投獄。
許攸は栄達が望めなくなったので、情報を持って曹操に投降。
審配と逢紀は軍内部の派閥争いを深刻化させ、
大戦後に三男袁尚を擁立して、袁軍崩壊の直接の要因を作ったのです。
荀彧のプロファイリングすごい。
荀彧自身は官渡の戦いにおいて、洛陽と許都の行政を仕切るために留守を勤め、後方支援に徹します。
途中曹操が弱気になり、
「引き上げようかなあ。」
と荀彧に言ってきたことがありましたが、
荀彧はこれに対して、項羽と劉邦の兵糧不足の話を引き合いに出し、
退却したい曹操の意図を理解しつつもそれに反対し、
必ず袁紹軍に変事があって曹操が奇策を用いる時が来ると励まします。
そのとおり袁紹軍は内部分裂を起こし、
袁紹軍参謀の許攸が兵糧の秘密を持って投降。
曹操は奇襲をかけて兵糧を焼きつくし、袁紹軍を撃破。
官渡の戦いに勝利します。
建安6年(201年)、曹操は再度の袁紹との決戦に向けて東平郡の安平県で兵糧を集めましたが十分とはいえず。
曹操は袁紹との決戦は諦めて荊州の劉表を攻めようかなあとまたもや弱気になります。
しかし荀彧は今袁紹を叩いておくべきだと反対。
「今、袁紹は敗北を喫し兵士の心は彼から離れておりますゆえ、
この困窮に付け込んで、このまま平定してしまうべきです。
それを袁紹に背を向け、遥々長江・漢水の流域まで遠征されるとなると、
もしも袁紹が残兵を集め留守の間を狙って背後の地に出撃して来たならば、
公の覇業成功の機会は失われるでしょう」
と説得します。
曹操へのメンタルケアがすごい。もはやカウンセラーです。
そして、北のしごできおじさん、完璧超人かとおもいきや弱音吐くことが意外とあったんですね。
なお、袁紹はその後病死しますが、
その子である袁尚と袁譚の兄弟が対立。
曹操はそれに乗じて黄河を渡って袁氏を攻撃。
袁紹軍からの反撃をくらうも鍾繇が馬騰らを率いてこれを撃破します。
建安8年(203年)、荀彧はそれまでの功績から万歳亭侯に封ぜられました。
荀彧は「いや、実戦には従軍していないから」とこれを辞退しましたが、
曹操は荀彧の功績(励ましのお便り)は戦場での働きに勝るものと考えており、
あえてこれを受けさせようとしたため、荀彧もやっと応じたといいます。
私もそう思います。
建安9年(204年)、曹操は冀州を奪取し、冀州牧に就任。
曹操は建安12年(207年)までには袁家を滅ぼして華北の大部分を勢力圏に置きます。
荀彧の一族である荀攸はその遠征に参謀の筆頭として従軍。
また、荀彧の兄の荀衍は監軍校尉に任じられ冀州の鄴を守備。
彼らは大いに活躍し、その功績で列侯に封じられています。
荀彧の領邑は1000戸増やされ合計2000戸となった。
また、荀彧の子の荀惲に曹操の娘(安陽公主)が嫁いだ。
曹操の荀彧・荀攸に対する待遇は手厚いものであったが、
荀彧らは財産を蓄えるようなことをせず、親類や縁者に配り、家には余財は一切なかったそうです。
曹操は荀彧を三公に推薦しようとしたが、
荀彧は荀攸を使者に送り何度もこれを辞退したため、曹操はやっとこれを取り下げたんだとか。
悲しみの最期。
建安13年(208年)、
曹操は荊州の劉表を討伐するにはどのような策を執ればいいか荀彧に尋ねます。
荀彧曰く
「現在、中原が平定された以上、
南方は追い詰められたことを自覚してますよ。
宛・葉(しょう)に出兵する一方、
間道伝いに軽装の兵を進め、敵の不意を衝くのがよいでしょう」
と進言。
かくして曹操は出征、折りしも劉表が病死。
曹操は荀彧の計略通り、真っ直ぐに宛・葉まで赴くと、
劉表の子の劉琮は州をあげて曹操の軍を迎え降伏します。
しかし、その後曹操は赤壁の戦いで敗れ、退却を余儀なくされました。
建安17年(212年)、董昭らは曹操の爵位を進め、
「もう魏って国建てて天下取っちゃえばいんじゃね?」と考え、準備を進めていました。
この様な動きに対し荀彧は、儒者の立場から
「公(曹操)が義兵を起こしたのは、本来朝廷を救い、 国家を安定させる為であり、
真心からの忠誠を保持し、偽りのない謙譲さを守り通してきたのだ!
君子は人を愛する場合利益を用いないものだから、
そのようなことをするのは宜しくない」
と、曹操の腹心の中では唯一、断固として反対の姿勢をとりました。
荀彧的は儒者のマインドなので、
主君である漢王朝を助け、再興させることで世を安らかにすることが目的。
それを国を作って王様になるとか、それはちがうやん?もう信じらんない!という感じでした。
しかし曹操は次第に
「魏公に俺はなる」
と割とノリノリでその意思を明らかにし始めており、
二人の心はすれ違っていきます。
同年、曹操は孫権征伐に赴きますが、
曹操が濡須まで軍を進めようとした時に荀彧は病気となり寿春に残留。
そのまま死去します。50歳でした。
この死には謎が多く、
自死とも言われています。
「後漢書」「魏氏春秋」では、曹操から贈られた器の中身が空だったために、
その意図を「お前はもう用済みだ」と解釈して服毒自殺した、とか。
曹操を支えてサポートしてきた荀彧の悲しすぎる最期です。
荀彧の死の翌年、曹操は念願の魏公となり、
その後魏王に昇ります。
曹操はその数年後に病死しますが、
その後は息子の曹丕が献帝から帝位の禅譲を受け、皇帝となります。
荀彧の死から8年後のことでした。
●荀彧文若、その生涯と活躍。
荀彧別伝での称賛の声。
荀彧の事績は他の同時代人物よりも特に多かったためか、
単独で列伝は立てられていないにもかかわらず、その伝の記述は極めて多いです。
「荀彧別伝」という書物には、いろいろな人の評価が記されています。
同僚の鍾繇は
「孔子の弟子である顔回の没後、それに匹敵する徳を備えた唯一の人物である」と称賛。
司馬懿は
「書物に書かれていることや、
遠方の出来事を見たり聞いたりはしているが、百数十年間に亘って、荀彧殿に及ぶ賢才は存在しない」と評価。
曹操は、天子に上表する際に
「袁紹を亡ぼす時など数多くの荀彧の謀は、とても私の及ぶところではありません。
先に下賜され記録されました爵位は、荀彧のずば抜けた功績に相応しくありません。
どうか彼の領邑を古人並にして下さいますように」と称賛。
また、
「荀尚書令の人物鑑定は、時が経てば経つほど益々信頼に値する。
予はこの世を去るまで忘れない」とも語ったといいます。
後の時代の評価。
「三国志」の編者である陳寿は、
彼と、年長の甥の荀攸、謀士賈詡の三名を、同じ巻に納めています。
荀彧に対する評価は
「荀彧は涼しげな風貌と王佐の風格、さらに先見の明を備えていた。
しかし志を達成することは出来なかった」
とあります。
「三国志」に注釈を付けた裴松之は、
「当時のような乱世を平和に導くために、曹操に協力するほかは無かった。
このことにより漢は生きながらえ、民衆は救われた」
と絶賛。
陸遜には辛口でしたが荀彧には絶賛です。
ちなみに裴松之は同じ曹操の軍師である「闇の軍師」こと賈詡に対しても厳しく、
「荀彧や荀攸のような人物を、賈詡などと同列に扱うのはおかしい」と述べています。
裴松之さんは推し以外にツンツンです。
三国時代、もっと辛口評価の毒舌チェックで有名な 禰衡(でいこう)さんは、
「曹公(曹操)、荀令君(荀彧)、趙盪寇(趙融)は皆、世にぬきんでた人物と思うが?」
と人に聞かれたとき、
「曹操などそんなに大した人物ではないね」と答えた上で、
「文若(荀彧)は弔問に行くのがお似合いだ。」
と言ったそうです。
要するに、荀彧は見てくれだけは良いので、
「葬式の弔問にはぴったりだ」と謎のイメージでからかったわけですが、
裴松之がいうには、
「他人の悪口ばかり言うことで評判だった禰衡も、
荀彧の見た目の良さだけは認めている」
とのこと。おまいう。
なお、 禰衡は、若い頃から並外れて恵まれた才能をもっていたものの
それを鼻にかけて傲慢不遜な態度をとり、人物評はとことん酷評していたのであちこちで憎まれましたが、その毒舌で有名になった人です。
また「典略」という書物にも、
「荀彧は風貌が立派であった」とあり、
その涼しげな風貌は内外で名高かったとされていて、どやらイケメンだったようです。
賢いうえに応援してくれるイケメン。まさに王佐の才。ゴクリ。
紹介したとおり、
荀彧の功績は極めて大きかったのですが、
荀攸や鍾繇ら多くの者が魏の功臣として曹操の廟庭に祭られる中、
大いに信頼され、サポートしてきた荀彧が祭られていません。
このことについては荀彧が晩年に曹操へ異議を唱え、
魏の官位を得ることなく亡くなったからと三国志に注釈を加えた裴松之は推測しています。
曹操配下の人々は、主君曹操を天下人に!という思いがありましたが、
荀彧の根底にはずっと、ご先祖様から引き継いだ、
儒学の思想と価値観があり、
あくまで「漢王朝復興のために」という思いで働いていたというわけですね。
以上、曹操の名参謀で王佐の才、荀彧の紹介でした。
次回は荀彧が見出した魏の狂犬、郭嘉の紹介です。
なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。
ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。
参考:
荀彧-wikipedia
官渡の戦い-wikipedia
禰衡-wikipedia
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