歴史 軍師列伝

84 みんなだいすき三国志 軍師列伝5 魯粛子敬

ごきげんよう、ハゲと天パです。

みんな大好き三国志。
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる三国志。
数多の英雄たちが駆け抜ける三国志。
そんな三国志に欠かせないのが、
国と戦を動かす軍師の存在。

本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。

今回は第5回。
前回に引き続き呉陣営の軍師から、魯粛子敬の紹介です。



魯 粛(ろ しゅく)は、中国後漢末期の武将・政治家。
字は子敬(しけい)。
徐州下邳国東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。
孫策・孫権に仕えました。

いつも出てくる赤壁の戦いでは降伏派が多い中、
主戦論を唱え周瑜・孫権と共に開戦を主張。
赤壁の戦いのあとは、劉備陣営との架け橋となり
孫劉同盟のために尽力しました。


魯粛

アレな子扱いされる。


魯粛は裕福な豪族の家に生まれますが、
生まれてすぐ父が死去。
祖母と生活しました。
おばあちゃん子です。

地元にいた頃から他者への施しを盛んに行い、
やがて家業を放り出し、財産を投げ打ってまで困っている人を助け、地方の名士と交わりを結びました。

魯粛は体が雄々しく立派で、
若いころから壮士の節義を持ち、奇計を考えることを好んだそう。
時はまさに天下が乱れんとしており、
それに備えて剣・騎射などを習ったり、
また、私兵を集めて狩猟を行ない、
兵法の習得や軍事の訓練に力をいれていました。

家業をほっぽり出すは、施しをしまくるは、体を鍛えだすはといったことばかりしてたので、
郷里の人々には理解されず、村の長老には
「魯家に、ちょっとアレな子が生まれた!」
とまで言われていたそうです。
アレ=気◯い です。

魯粛

周瑜と仲良くなる。


前回紹介した周瑜が居巣というところの県長だった頃、
わざわざ巷で話題の魯粛の元に挨拶にやってきて、
ついでに資金や食料の援助を求めます。

この時、魯粛は持っている2つの倉の内の片方を、
はいどうぞ。と気前よくそっくり与えるという
ちょっと頭のネジがアレな大胆ムーブをかまします。

これには周瑜もびっくり。
コイツ、やばいぞ。ただものじゃない…
と、魯粛の非凡さを認め、これをきっかけに親交を深めました。

周瑜

魯粛の名声は次第に高まり、
その辺りをシメてた袁術に請われて配下となり、
東城県長に任命されます。
投資って大事ですね。

しかし袁術は家柄はすごいですが正直アレなので、
彼の支離滅裂な行状を見た魯粛は早々に見切りをつけて離脱。
※ここでのアレ=ポンコツ です。

一族や若い遊侠達を多く含んだ郎党を引き連れて、居巣の周瑜を頼り、周瑜とともに長江を渡ります。
ちなみにこのとき、
渡河を阻止しようとする役人達を、
魯粛は私兵を引き連れて、弁舌と武力で説得し、長江を強引に渡ったそうです。

当時の周瑜のボスである孫策からも、
魯粛は非凡さを認められ尊重されたといいます。


やがて魯粛の祖母が亡くなり葬儀をしている時、
友人の劉曄(りゅうよう)から手紙がきて、
「北の故郷に帰っておいでよ。一緒に鄭宝という人の下に行かないか?」
と誘われます。
その頃この鄭宝とやらは1万の兵士を集め、
いっちょやったろかい。というところでした。
魯粛は手紙を劉曄に送って賛同し、地元に戻る準備を始めます。

一方その頃、周瑜のボス、孫策が急逝。
孫家は、弟の孫権が跡を継ぎました。

魯粛がおばあちゃんのお葬式で離れている間、
周瑜は魯粛のお母さんのお世話もしており、
その都合もあって魯粛ママの身柄を呉に移していました。

お母さんを迎えに来た魯粛、
「そんなわけでお母さん連れて、劉曄と行くわな。今までありがとう。」
と事情を説明しますが、
周瑜は孫権の王者としての資質と江南の天運の存在を挙げ、逆に魯粛を説得。
この周瑜からのプレゼンにより、魯粛は北へ戻ることを思いとどまり、
周瑜の推挙により改めて孫権に仕官します。


魯粛

魯粛の大胆戦略。


魯粛が孫権に初めて謁見した時、
孫権は魯粛を大いに気に入り、他の客が帰った後も彼1人を呼び戻して、酒を酌み交わし天下を論じます。
めっちゃ気に入られるやん。

魯粛は
漢を復興することなどは無理なことであり、曹操もそう簡単には取り除くことが出来ません。
ですから将軍にとって最善の計は、江東地方をしっかりと割拠し、天下の変をじっくりと見守ることです。
具体的に曹操が北方問題に取りかかってる間に黄祖、劉表を討伐し長江を極めた後に帝王を号しましょう。


と、北の曹操とはとりあえずぶつからず、
孫権が南を平定し勢力を拡大して力を均衡させることで対抗しよう。という、いわば天下二分の計を提案しました。

ただ、この「漢王室はもうダメですわ。
という発言は当時のモラル的にそんなこと言っちゃダメ案件。
当時の人からするとかなり「うわぁ…」な主張だったので、
孫権は
うん、今は地方が手一杯だね。
漢室をお救いできればと願うばかりで、そのような事は及びもつかないなー。あはは。

とお茶を濁す感じでした。

重臣の張昭も、魯粛の不遜さを咎め、
「あんなこと言うやつは用いてはなりませぬぞ!」
とプンスコプンプンで非難しますが、
孫権的には、そんなことはいうけれども、彼、むしろ良いじゃないの。と、ますます魯粛を尊重。
厚くもてなしたため、魯粛ママは以前の資産家だった頃と同様の生活が送れるようになったそう。
よかったです。

ちなみに、曹操が北方問題に取りかかってる間に黄祖、劉表を討伐しよう。
という天下二分の計の目標は達成できませんでした。



魯粛

孫劉同盟と赤壁の戦い。


建安13年(208年)、荊州の劉表が死去します。
魯粛はすぐに荊州の様子を探りに行くように進言、
自分が劉表の弔問の使者として行ってくることを申し出ます。

孫権は魯粛を使者として送りましたが、魯粛は道中で既に曹操が荊州征伐の軍を起こしたことを知り、ただちに南郡に急行。
そこで劉琮が曹操に降伏し、劉備は敗走して江夏に向かっていることを知ったため、
劉備を迎え取るため出向き、対面を果たします。

魯粛が孫権の意向と実力を伝え、
劉備と同盟を結び曹操と対峙したい事を進言すると、劉備はこれを喜び、
さらに諸葛亮と話し合って親交を結びます。
魯粛が孫権に復命のために帰還するとき劉備は諸葛亮を使者として魯粛に同行させました。

周瑜回でも書いた通り、
このころ孫権陣営では曹操への降伏論に傾きつつありました。
会議の間、ただ一人抗戦を訴えていた魯粛は一人沈黙していましたが、
孫権が、トイレに立ったときに追いかけます。
孫権が「魯粛的にはどう思ってるの?」と尋ねたところ、
魯粛は、
「曹操に降伏してもボスは身の置き所がないから、降伏にメリットないんですよね。」と論じます。
孫権も実は同じ考え方で、
部下たちは名士なので降伏したあとも曹操のもとでそれなりのポストがあるでしょうが、
孫家はそういう立場ではないので処刑されるか路頭に迷うことになります。
正直、降伏論に失望していたことを打ち明け、孫権は魯粛の存在を天からの贈り物として称えたそうです。

一方その頃、周瑜は使者としてお使いに出ていて不在でしたが、
魯粛は孫権に進言し周瑜を呼び戻します。
周瑜が帰還すると、周瑜・魯粛・孫権で抗戦に押し切り、
孫権は周瑜に軍の総指揮を任せ、魯粛は賛軍校尉に任命し周瑜の補佐をさせます。

魯粛

赤壁の戦いのあと。


赤壁の戦いはさんざん今まで書いてきたので割愛。
くわしくは周瑜回とかをごらんください。

赤壁の戦いの後、曹操が敗走すると、魯粛はすぐさま一足早く帰陣。
孫権は諸将を総動員して魯粛をスタンディングオベーションで出迎えます。

魯粛が陣地に入って拝礼しようとすると、
孫権が立ち上がって彼に敬礼し、

「子敬よ、孤(わたし)が鞍を手に下馬して出迎えたならば、そなたを充分に顕彰したと言えようか?」
と聞くと、魯粛は走り出て
「いいえ、まだ充分とは言えませぬ」
と答えるので、その場にいた人たちもびっくりしますが、
座に着いたのち、魯粛は
「願わくば殿、威徳を四海に加えて九州を総括され、よく帝業を打ち立て、改めて安車・軟輪を以てこの魯子敬を徴されますよう。
そうして初めて顕彰した事になるのでございます」
と粋なことを言います。
これには孫権は手を叩いて愉快げに笑ったそうです。

降伏ムードの中、ただ一人抗戦の姿勢を貫いた魯粛。
大勝利のあとできっとドヤ顔だったでしょう。
でも、魯粛はそんなことしないかな。


この戦いで孫権軍は荊州南部を曹操から奪い取りますが、
劉備は呉の京城を訪問し、荊州南部の督にしてほしいと孫権に求めます。
これには周瑜や呂範といった人物が反対し、
劉備を荊州に返さずにコントロールできるようこのまま引き止めておくよう孫権に求めます。

しかしながらこのような中で周瑜が死去。
その遺言で後継役として選ばれ軍隊を取りまとめた上で、周瑜の兵士4千人と所領の4県を受け継ぎます。
その後、地方でも彼の威徳は行き渡り、兵士も1万人ほどに増強。
漢昌太守・偏将軍となりました。


魯粛

胃が痛いよ!孫劉同盟!


魯粛は上記の天下二分の計の考えにもとづき、
曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権に進言。
魯粛の提案を受けた孫権は、劉備に荊州を貸し与えることにしました。
魯粛は劉備陣営との連携に尽力し、
周瑜の死後には孫権陣営の舵取り役として活躍します。

周瑜が荊州を制圧した直後、
孫権は劉備に共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出ます。
しかし劉備たちは蜀をシェアするよりも自分たちだけのものにしたいと思ったのでこれを断り、
孫権が益州に遠征しようとしたときも、阻止しています。
今回も劉備、イヤなヤツです。


建安17年(212年)、劉備自身が益州に内応に乗じた騙まし討ちを行うと、

孫権は話が違うとプンスコプンプン。
緊張が走ります。

合わせて荊州を守る関羽との間でも、
荊州を巡って何度か紛争が起こるようになっていて、同盟は風前の灯ですが、
魯粛は劉備との同盟を続け、曹操に対抗するため、
常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにしました。
とてもお腹が痛い魯粛です。
ストレスで穴あきそう。

建安20年(215年)には劉備が益州を併呑。
それを知った孫権は、
荊州の長沙・桂陽・零陵の返還を求めたが拒絶されます。
オッケー、そっちがその気なら。と、
呂蒙に命じてこの3郡を平定。
孫権は3郡に役人を送り込もうとしますが、関羽が追い返してしまいます。
この知らせを聞いた孫権、
ブチギレで自ら陸口に布陣。
魯粛は1万軍を率いて進軍すると、
劉備も出陣、関羽も3万軍を率いて布陣し一触即発。
なんやかんや両軍は小競り合いを繰り返しながら睨み合います。

魯粛は常に毅然とした態度で臨み、
関羽を招いて会見、おのおの兵馬は百歩後ろに控えさせて、
ただ将軍だけが刀一振りを帯びて会談に臨むよう申し入れます。
サシで話つけようや。ということですね。

相手はあの関羽なので周りの人たちもハラハラしましたが、
魯粛は

荊州の土地は劉備が敗れて住むところがなかった為に貸したものであり、
今、益州を獲たにもかかわらず、
返還の意思は無く、ただ三郡を求めても命令に従わないとはどういう事か


と関羽を責め、劉備が情を飾り、
徳にもとったため好誼がやぶれたと非難。
これには関羽も何も答えなかったとあります。


結局、曹操がまた勢力を拡大してきたので、
劉備は荊州の返還を拒否したものの、
益州も失うことを恐れて、孫権へ和解を求めます。

湘水を境界線として分割統治することになり、
孫権は零陵と郝普を劉備に返還。
劉備は孫権に長沙・桂陽の領有権を認め、自分は零陵・武陵・南郡を領有することで停戦しました。

建安21年(216年)長沙郡の安成県長の呉碭と中郎将の袁龍が関羽に呼応して再び反乱を起こします。
孫権は魯粛に命じて平定しますが、
翌、建安22年(217年)秋、魯粛は46歳でこの世を去ります。
孫権は哭礼し、葬儀にも直々に参加。
諸葛亮も喪に服しました。

後の黄龍元年(229年)、
孫権は皇帝として即位した時、儀礼のための祭壇に登ると群臣を振り返り、
周瑜がおらねば帝位にはつけなかった。そして魯粛にはこうなる事が分かっていたのだ」と敬意を示したそうです。


魯粛

魯粛、実は強い。


魯粛は劉備陣営との板挟みで辛い立場の外交官的なイメージですが、
前述の通り若い頃から、体躯は雄々しく立派で、
乱世が深まると撃剣・騎射などを習ったり、私兵を集め狩猟を行ない、
兵法の習得や軍事の訓練に力をいれていたので撃剣に長け弓術・騎術に秀でていたりと、
実はとっても強いです。

袁術配下から離脱して長江を渡るときも、私兵を引き連れて、魯粛自らは弓を引き、
地面に立てた盾を何枚も矢で貫いてみせて、差し向けられた袁術勢力の追っ手を威嚇したそうです。


魯粛

評価とエピソード。


また、その人柄や功績も高く評価されており、

公平謹厳で、自らを飾ることが少なく、その生活は内外共に質素であった。
人々が持て囃すようなことには興味を示さなかった。
軍の指揮に当たっては、等閑なところがなく、禁令は誤りなく行なわれた。
軍旅の間にある時にも、書物を手から離すことなく、また思慮は遠くに及んで、人並み優れた明察力を備えていた。
周瑜亡き後の呉を代表する人物であった

と「呉書」には記されています。

孫権は、都を建業に戻して文武大会が行われたときのこと、
厳畯という人が、孫権は「魯粛と呂範を実質以上の評価をし過ぎるのではないかと、納得できない」と漏らしたことがあったので、
孫権は魯粛について、
劉秀は初め、更始帝の傘下に入っており、自分が皇帝になるつもりはなかった。
しかし鄧禹が漢の王室を復興し、皇帝になることを勧めたので、その志を大きくし、後漢を立てることになったのだ。
はじめ、私は漢の臣であり、帝王になる気はなかった。
魯粛は初めから漢の復興はもはや不可能だから私を帝王にするという目的を持ち、そのために一貫した行動をとったという点が、際だって優れている。
鄧禹と同様に魯粛もすぐに帝業論を唱えたのが似ている

といい、厳畯もこれを聞いて納得したそうです(「江表伝」)。

また、孫権は陸遜とともに、かつての名臣であった周瑜・魯粛・呂蒙について論じたとき、
魯粛は宴で帝業の大略(曹操が北方を治め、孫権が南方を割拠する天下二分の計)を披露したこと。
赤壁で抗戦を主張し、緊急に周瑜を呼び寄せ、大軍をつけて曹操を迎え撃てと進言してくれた。
魯粛には以上の二つの長所があるが、ただ劉備へ土地を貸すよう自分に勧めたのは短所の一つである。
しかし、前の2つの長所を打ち消すほどではない。
この点では、魯粛は光武帝の名臣であった鄧禹に匹敵すると思っている。
呂蒙は関羽を捕えることにかけては魯粛以上のできばえであった。
魯粛は、帝王が世に出てくるときには邪魔する者は常に駆除されるものです、と自分に言った。
魯粛は口だけだったが、自分は別に咎めようともしなかった。
魯粛の取り柄はやはり、軍事にあった。
魯粛が軍を率いると、命令がピシッと決まっていた。
軍営は言うまでもなく、彼の軍が駐営するところはどこも規律が行き届いていたものだ

と魯粛について語ったそうです。

陸遜

周瑜のときに出てきた東晋の袁宏の「三国名臣序賛」でも、
魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛されており、その中に名を挙げられています。

また、魯粛にはこんなエピソードも。
魯粛は呂蒙について、軍略一辺倒の軍人であると侮っていましたが、
後に、魯粛が陣地を移す途中で呂蒙の下を訪れた時、呂蒙が独学で逆に学問の指南を受けるまでの知勇兼備の将軍に豹変していました。
魯粛は驚き、「いやー、すごいじゃん、もう呉のどこにでもいるような蒙ちゃんじゃないね!」と褒めます。
そして呂蒙のおかあさんにに面会を申し入れ、親しく付き合うようになったそう。
そんなこともあって、当初、孫権は魯粛の後任に学者の厳畯を起用するつもりでしたが、呂蒙を後任に起用したのでした。
この逸話は「呉下の阿蒙」という故事成語となっています。

また、後に孫権が病気になったときのこと、
祈祷を行うシャーマンが
「絹巾をつけたもとは将相とおぼしき幽霊があって、叱りつけても見向きもせずに宮中へと入って参ります」
と報告。
その夜、孫権は魯粛がやって来るのを目にしたが、
服と巾の様子はかの巫者が言ったとおりだったというまさかのホラーエピソードもあります。


小説の三国志演義では、
親劉派文官として扱われ、劉備陣営とのパイプ役を務めますが、
気弱で優柔不断な性格のために諸葛亮にあしらわれ、周瑜になじられるという損な役回りをで描かれていますが、
ところがどっこい、
正史では困っている人を私財をなげうって助けたり、
主君を想って抗戦を徹底したり、
なんやかんやゴネてくる劉備陣営に毅然と対応したり、
晩年も呂蒙たちを助けて関羽を食い止め領地を奪還したりと、
呉のために奔走する義理と人情の粋なアニキ的なひとでした。

魯粛

以上、呉の(軍師なのか?)魯粛の紹介でした。
次回は魯粛や周瑜、彼らの意思を継ぐ陸遜を紹介します。
よろしくお願いします。




なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。

ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。

興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。




参考:
魯粛-wikipedia


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