ごきげんよう、ハゲと天パです。
みんな大好き三国志。
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる三国志。
数多の英雄たちが駆け抜ける三国志。
そんな三国志に欠かせないのが、
国と戦を動かす軍師の存在です。
本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。
第4回からは呉陣営の軍師の紹介。
まずはこの人、「美周郎」こと周瑜公瑾の紹介です。
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周 瑜(しゅう ゆ)は、中国後漢末期の武将。
字は公瑾(こうきん)。
呉の国、赤壁にもほど近い揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人で渾名は周郎。
「郎」とは若者の意味なので、
周の若様とか、周兄ちゃんみたいなノリです。知らんけど。
イケメンだったそうで、「美周郎」とも。
●周瑜の生涯と活躍
ソウルブラザー 孫策との出会い。
周瑜の生い立ちなどを見ていきましょう。
上記の通り揚州廬江郡舒県が地元の
周家は後漢朝の高官を歴任した名家。
高祖父の周栄が尚書令になったのを始めに、
従祖父の周景・従父の周忠が三公の一つである太尉を務め、お父さんの周異も洛陽県令となっています。
そんな由緒正しい家に生まれた周瑜。
成人すると立派な風采を備えるイケメンに成長。、
小説『三国志演義』でも、
「姿質風流,儀容秀麗」な美男子として描かれています。
人呼んで「美周郎」。
中国の伝統芸能 京劇でも、古来から二枚目が演じる役とされており、
眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着しています。
後に呉を治める孫権。
そのパパである孫堅が、当時後漢王朝を牛耳って暴政を行っていた董卓を倒すための反董卓連合軍に参加した際、
その息子で孫権のお兄ちゃんの孫策の名声を聞いた周瑜は寿春に赴いて孫策と面会、
二人は同い年で意気投合しました。
周瑜は孫策に地元の舒県へ招いて引っ越しを勧め、孫策もこれに従います。
孫策の一家に周瑜は大きな屋敷を譲り、家族同然の付き合いをしたそうです。
初平2年(191年)の襄陽の戦いで孫堅が劉表との戦いで死去。
当時このあたりを仕切っていたのは名家の有力者、袁術で孫堅はその傘下におり、
孫策も袁術の配下の遺族として次弟の孫権とともに袁術軍に従って移動。
興平元年(194年)、袁術と揚州の支配をめぐって対立していた揚州刺史の劉繇を攻めるため江東へ挙兵します。
一方その頃の周瑜は従父の周尚が丹陽太守に任命されたので、
そのご機嫌伺いに出向いていましたが、
孫策から誘いの手紙が来たため、「あいさつしてる場合じゃねえ!」兵士を連れて孫策の元に駆けつけます。
そしてお察しの通り、孫策に従って各地を次々に攻略し劉繇を敗走させました。
この連戦連勝により孫策の軍勢は数万に膨れ上がり勢力は強大に。
「これはいけるな。」と思った孫策、独力で呉と会稽を攻略できると判断し、
周瑜には丹陽の守備を任せます。
袁術は丹陽太守に従弟の袁胤を送り、
前丹陽太守の周尚おじさんと周瑜を自らがいる北の大都市 寿春 に召喚。
袁術は周瑜を配下に迎えようとしたが、
周瑜は袁術の先行きに「こいつ大した事ないな。」と見切りを付け、
居巣県長になることを願い袁術の下を離れ、やがて建安3年(198年)頃に呉に亡命、帰還しました。
なお、その頃、魯粛と仲良くなり、呉へ一緒に亡命しています。
孫策は周瑜を歓迎し、建威中郎将に任命。
兵士2000人・騎馬50匹を与え、さらに軍楽隊や住居もどどんとプレゼント。
破格の待遇ですが、孫策いわく、かつて丹陽で周瑜に受けた恩に報いるためには、これでもまだ足りないと述べたとか。
人々も当時24歳の若い周瑜を周郎と呼び、大いに慕われています。
上記の通り「郎」とは若者の意で同時期に孫策も孫郎と呼ばれていたそうです。
そんな呉郡での名声の高さを買われて、
牛渚の守備を任され、後には丹陽郡の春穀県長にも任命されました。
その後、孫策は荊州攻略を考えるようになり、
周瑜を中護軍に任命、江夏太守の職務を任せ、攻略に当たらせます。
廬江の皖(安徽省潜山県)を攻め落とした時、喬公の2人の娘を捕虜にし、
孫策は姉の大喬を、周瑜は妹の小喬を妻に迎えました。
孫権を補佐。
連戦連勝を重ね破竹の勢いで活躍する孫策軍でしたが、
建安5年(200年)、あろうことか孫策が急逝します。
孫策が単騎で外出した日、長江のほとりに潜伏していた敵3人と遭遇。
1人を射殺したものの残り2人が放った矢の一本が頬を貫き命を落としたそうです。
周瑜は軍勢を引き連れて葬儀に参加すると、
そのまま呉に留まり、古参の呉のブレーン、張昭と共に様々な諸務を取り仕切ることとなりました。
孫策亡きあとは弟の孫権が後継者となりますが。
この頃、諸将や食客の中には後を継いだばかりのひよっこ孫権を軽んずる者もありました。
周瑜は孫権に率先して臣下の礼を取り、規範を示したため、周囲もそれに従うようになったそうです。
また、一緒に呉へ来た魯粛が北へ戻ろっかなあと考えていましたが、
周瑜は孫権の王者としての資質と江南の天運の存在を挙げ、魯粛を説得。
魯粛は帰ることを思いとどまり、周瑜の推挙により改めて孫権に仕官します。
建安7年(202年)、官渡の戦いで袁紹を破り勢いのあった曹操が、
孫権の元に使者を差し向け人質を送ってくるよう命令。
孫権は群臣達に議論をさせたが、張昭や秦松といった参謀達もはっきりとした意見を出せずにいました。
孫権は心の中では人質を送るのイヤだな。と考えていたことから、
母親の呉氏の元に周瑜一人を連れて、その席で議論をしようとします。
周瑜は、人質を送らずこのまま力を蓄えて天下の情勢を見極めるべきと述べ、ママもこれに同調。
孫権も、だよね。と従います。
ママの呉氏も周瑜に対して信頼が厚く、孫権に対して周瑜を兄として仕えるよう命じています。
赤壁の戦い。
建安13年(208年)9月、曹操が荊州に侵攻し劉琮を降伏させ、
これを受けて孫権陣営では曹操に降伏するか抵抗するかで論争が起きます。
曹操は自前の兵士数万にプラスして劉表の整備した荊州水軍も手に入れていたため、強大な戦力。
これには孫権陣営でも無理ゲーなムードが漂い、降伏論者が多数を占めていました。
周瑜はその時鄱陽への使者に出向き呉を留守にしていましたが、
「いやいや戦いましょうよ!」という魯粛に呼ばれ急いで帰還。
内緒の会話で既に必勝の自信を持った周瑜は、
孫権に「曹操を破ったら、長江上流は私たちのものです」と進言し、孫権もこれに同意。
後に群臣の会議で曹操を漢の賊と呼び、
曹操軍が抱える数々の不利と、自軍の利を降伏の群臣に説いて抗戦を主張します。
周瑜は
「曹操が自ら死ににやってきたというのに、それを迎え入れることなどありましょうや?」
「いっちょ計略を立てることを許してくださいな。」
と言ったことで抗戦派の孫権も曹操に対抗することを決断し、
3万の精兵を周瑜や程普らに与えます。
一方、曹操から逃れてきた劉備は孫権の領地の樊口に駐屯し、
孫権軍と合流すべく毎日、見張りを河辺に立たせて、孫権軍を待っていました。
周瑜の船隊が見えた劉備はすぐさま一艘の小舟に乗って出向き、
「今、曹操に抵抗するのは、まさしく計略の決定です。兵卒はいかほどおありか?」と訊ねます。
周瑜が「三万人です。」と言ったので、
いやいや曹操軍数十万になっとるで。と聞いてる劉備は、
「残念ながら少なすぎる」と言うと、
周瑜が「これで充分です。劉備どのは、周瑜が敵を打ち破るのをゆっくり見てください!」と言ったとか。
劉備は内心「だめだこりゃ。」と思い、曹操軍を撃破できるとは信じられなかったので後方に下がり、
二千の兵をひきいて関羽、張飛とともに
動かず、周瑜に協力しようとはしなかったそうです。
いよいよ始まった赤壁の戦いですが、
周瑜の予測通り、この時曹操軍は軍中に疫病を抱えており、一度の交戦で曹操軍は敗退。
周瑜らは長江南岸(赤壁)に布陣し、部将黄蓋の進言「苦肉の計」を採用、
孔明、龐統回でも紹介の通り、「連環の計」で逃げられなくなった曹操軍の船団に、
降伏を偽装して接近に成功した黄蓋が火を放つとたちまち燃え広がり、
岸辺の陣営にも延焼して火計が大成功。
次に烏林陸岸で孫権やその配下の武将たちは周瑜に随行して追撃を加えて曹操軍を打ち破りました。
被害が多数に及んだ曹操軍は、引き返して荊州の南郡に籠り、
高みの見物を決め込んでいた劉備も追走すると、曹操は北方へ撤退するのでした。
荊州争奪と最期。
赤壁の戦いの勝利後、孫権軍は残っていた曹操軍を攻撃。
そのまま長江の北岸に陣を据えて攻撃を続行しましたが、
正面決戦の末に、周瑜は右のわき腹に流れ矢を受けて傷を負ってしまいます
周瑜は重傷のまま戦に臨み将兵を激励、曹操軍を撃破します。
この後、周瑜は荊州の長江南岸の地を劉備に分け与え、劉備は荊州の南岸に軍を駐屯。
ちょっと配下や民衆を養うのに足りないなあ。と思ったので、
直接孫権のところに荊州の数郡を借りることを頼み込みに行ったりします。
この時、周瑜は孫権に、
劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将をもらっちゃいましょうよ。と献策しましたが、
孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、
また劉備を制約させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下されました。
一方、魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権に進言しています。
周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断。
その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、関中の馬超と同盟を結んで
曹操を両側から攻めましょうという計画を立てて孫権に献策。
同意までとりつけたものの、その遠征の途中に急逝してしまいます。享年36歳。
周瑜の死は孫権を大いに嘆かせます。
孫権は建業に戻ってくる周瑜の棺を出迎え、盛大に葬儀を執り行います。
周瑜の後は魯粛が継ぎ、魯粛の提案を受けた孫権は劉備に荊州を貸し与えました。
後に孫権が皇帝に即位した際、「周瑜がいなければ皇帝になれなかった」と嘆き、
赤烏2年(239年)、周瑜を祭る廟を建てています。
●周瑜の人物像と評価
有能イケメンで完璧超人。
立派な風采を備えたイケメンで知略・武略に優れており、
その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどだった周瑜。
実際に曹操も周瑜の引き抜きを図っていたり、
劉備も孫権にウソをついて孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっています。
今回の劉備はわりとイヤなヤツですね。
周瑜は寛大な性格で人心を掴むことが得意だったそうですが、宿将の程普とだけは折り合いが悪く、
程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたそうです。
しかし周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、
その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになったんだとか。
また、若い頃より音楽に精通しており、
演奏を聴いていると、
「たとえ宴会中酒盃が三度回った後でも僅かな間違いに気付いた。」
といいます。
そのため当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を作って囃したという。
イケメンで賢くて性格良くて音楽もできる。
何なん?この完璧超人は。
上記エピソードの通り、主君の孫策・孫権とは関係は特に親しく、
孫策とは同い年で若い頃から知り合い、ともにお互いの母親へ挨拶するなど良好な関係でした。
孫権は周瑜を兄として扱い、しばしば周瑜に衣服をプレゼントしていたそうです。
夏服冬服合わせるとその数は百着にもおよんだそうで、諸将で彼に比肩できる者はいなかったんだとか。
服って、わりともらうの困りますよね。
周瑜自身も、
「外は君臣の義に託し、内に骨肉の恩を結び、建言は行なわれ計策に従われ、禍福を共にするもの」
と孫権との関係を述べています。
本人の言によれば将来性のある主君を自ら選ぶそうで、
初めは袁術へ仕官したが、袁術があまり才能がないと思っていたため、その下を離れるます。
また、孫権が跡を継いだ頃から「あ、この子、皇帝になるな。」と予言し的中しています。
周瑜の評価。
三国志の作者、陳寿は
「曹公(曹操)は丞相という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、
荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。
このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。
周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しさを立て、
人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」
と評しています。
孫権は陸遜に対して周瑜らを論じた時
「公瑾は勇敢で、膽略は人を兼ね、遂に孟徳を破り、荊州を開拓した。
邈かにして継ぎ難く、君が今これを継いでいる。」
と語り、周瑜のことを「王佐の資」と評しています。
東晋の袁宏は「三国名臣序賛」で魏の9人、蜀の4人、呉の7人が名臣として賞賛しており、
その中、呉の7人の中にもちろん周瑜の名前も入っています。
また、唐の史館は中国六十四名将に選んでいます。
北宋の徽宗のときには、平虜伯の爵位を追贈され、
北魏の時代には、周瑜廟がよく知られ、周瑜の名は「大雷神」とも呼ばれています。
●演義での扱い
小説の「三国志演義」でも周瑜は活躍する重要な登場人物です。
その中では諸葛亮孔明とのライバルエピソードも欠かせません。
おのれ孔明。
劉備の使者として呉に滞在していた諸葛亮に、
その出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされています。
銭形警部的な感じです。
自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、
終始ライバル視しながらも遂に敵わず病に倒れる。
臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、
天を仰いで「既に周瑜を生みながら、何故諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」
と、血を吐いて憤死するという最期となっていて、かわいそうなぎゃふんキャラです。
ただし、軍事の才は「演義」においても優れており、
赤壁の戦いを始めとして、多くの戦いで戦功を立てるのは史実と同様。
一国を担う将器・常人に勝る才幹を持つ人物として描かれているものの、
それを更に圧倒する鬼謀を備えた諸葛亮の、引き立て役にされてしまったというイメージが強いです。
ちなみに諸葛亮の代名詞となっている道士風の綸巾・羽扇、
意外にも元代までは周瑜の姿をイメージした衣装とされていたんだそうですよ。
北宋の詩人蘇軾の『念奴嬌』でもその姿で歌われ、
南宋代の楊万里の詩や趙以夫の『漢宮春次方時父元夕見寄』でも「周郎」が綸巾・羽扇を持っていると詠まれて、
「周郎」と「羽扇綸巾」がセットとしてイメージされていたのですが、
これが次第に変化し、元代後期以降には諸葛亮のものになっていったそうです。
トレードマークまで孔明に取られ、かわいそうな周瑜。
そんなわけで、
イケメンで賢くて性格良くて音楽もできる。
完璧超人なのに演義での扱いがかわいそうな周瑜でした。
強者ぞろいのエリート集団な呉の国でもトップの実力者です。
彼もまた志半ばで若くして世を去ってしまったわけですが、
三国志指折りのヒーローとして今も愛されています。
次回も呉の軍師を紹介していきますので、
よろしくお願いします。
以上、徐庶の紹介でした。
徐庶の人生は物語としては報われないですが、
最終的に穏やかに生涯を全うできたのではないかと思われますので、
その点では良かったなと思います。
優秀ではあるものの「普通の人」というところに非常にシンパシーを感じて大好きです。
なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。
ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。
参考:
周瑜-wikipedia
孫策-wikipedia
袁術-wikipedia
関連してるようなしていないような こちらもどうぞ。
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