ごきげんよう、ハゲと天パです。
みんな大好き三国志。
3世紀頃の古代中国を舞台に、
魏・呉・蜀の三国がバトルを繰り広げる。そんなお話。
三国志に欠かせないのが、国と戦を動かす軍師の存在です。
本シリーズでは、蜀、呉、魏の順番に、
基本的に独断と偏見のセレクトで3名ずつ紹介していきます。
今回は第2回。
前回の諸葛亮孔明と同じく蜀の劉備を支えた天才軍師、龐統です。
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龐 統(ほう とう、179年 - 214年)は、
荊州南郡襄陽県の出身で
字は士元(しげん)。
若い頃から優秀で、「臥龍(がりょう)」「伏龍(ふくりゅう)」と呼ばれた諸葛亮孔明に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられました。
「鳳雛」とは、「まだひな鳥だけど、世に出れば伝説の鳥、鳳凰となるだろう」ということ。
伝説のポケモンです。
そんなひよこフェニックス龐統は名門の出身。
おじさんの龐徳公は、同じく南郡襄陽県の名士であり、人物鑑定の大家。
このころは人物鑑定が大変大事で、
龐徳公や孔明回に出てきた司馬徽のような権威ある人からいい感じの評価をもらうことができれば
まさに「お墨付き」となり出世の道が開けるという具合だったようです。
ちなみに、孔明と龐統の師匠である司馬徽に「水鏡」と名づけたり、
孔明を「臥龍」、龐統を「鳳雛」と名付けたのもこの人だそうで、
ニックネームをつけるプロ。後漢末期の有吉さんです。
●龐統の活躍
不遇の青春。
さてさて龐統、
幼少時から優秀であり、その才能の片鱗を見せてはいましたが、
若い頃は口下手で身なりも冴えなかったことから評判を得なかったそうです。
当時は人相も大切だったので、残念ですが賢いだけではうまくいかなかったようです。
今も第一印象で評価が左右されたりルックスで決まるところもあったりはしますが…
そんな龐統の将来を心配した前述の龐徳公おじさんからのすすめもあり、
人物鑑定で有名な水鏡先生こと司馬徽に会いに行きます。
司馬徽先生と大いに語り合い、
その才能に先生も
「太鼓判、花マルあげちゃう!}
というわけで認められ、ようやく名が高まりました。
もちろん他の人物鑑定家からも高評価。
「半ば英雄である」とまだ目立った活躍をしていないうちから高く評価されます。
ハードルがガン上がりですが、だんだんと評判を高め、
郡の功曹という役人、今風に言えば「自治体の人事局長」といったところのポストに就任します。
呉・荊州でのお仕事。
また後に呉の周瑜の功曹も担いますが、
周瑜からは信頼も厚く親しい間柄だったようで、
彼が荊州を攻略して南郡太守に任ぜられると、龐統は南郡の功曹に。
「赤壁の戦い」の際には周瑜に対して「連環の計」を献策。
周瑜は曹操軍の軍船を火攻めにしようと考えていたが、
一隻に火をつけても他の船は逃げてしまい、燃え広がらないということが問題。
龐統は、自ら曹操の軍営に潜り込んで曹操と面会し、
北方人の弱点である船酔い対策として、船同士を鎖で繋げることを進言します。
この連環の計により、曹操の水軍は火がついても切り離しができず逃げられないようになり、火計の餌食になって大被害。
孫劉連合軍は大勝利を収めます。
蜀攻略の途中に周瑜が病死してしまった時には、
龐統が彼の遺骸を送って江東に行くという役目を務め、
周瑜との関係の深さを物語っています。
その後、呉の孫権は荊州を劉備に割譲しますが、
龐統は劉備の下に転職。
最初、劉備から片田舎の耒陽(らいよう)の県令(今で言う県知事くらいのポスト)の職を任じられますが、仕事を滞らせてなんとクビに。
これを聞いた孫権軍の魯粛はおどろき、
「龐統は大役を与えてこそ輝く人物だよ!」とお手紙でおすすめ。
魯粛は三国志でもナンバーワンのいい人です。
同じ水鏡先生門下で実は龐統と友達だった諸葛亮孔明も劉備にとりなします。
龐統は劉備に目通りして十分に語り合った結果、
劉備も龐統が大いに有能だと評価。
孔明と同じポストである軍師中郎将に任命します。
手のひらクルクルで草。
三国志演義では、
周瑜の葬儀の際に孔明と対面、劉備に仕えるよう誘われます。
呉の魯粛は、龐統の才を惜しみ、
劉備にとられる前にスカウトしようと孫権に引合せられますが、
龐統の醜い風貌と、問いかけにきちんと答えなかったことから孫権からは嫌われてしまいます。
龐統は、「孫権は見る目がないね。」と次に劉備に面会しますが、
劉備も劉備でその風貌を見て諸葛亮が推挙する龐統かどうかが判らず、
閑職の地方県令をあてがってしまいます。
どんだけ見た目が悪かったのよ。
県令として赴任した龐統は、
1か月間も酒ばかり飲んで職務を怠け、村人から訴えられることになります。
これを聞いた劉備は張飛を派遣して詰問。
正直、張飛が詰問しに来るとか半分死刑みたいなものです。
しかしそこは天才龐統。
ひよこフェニックスの名は伊達ではありません。
たまっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまいます。
これによって、龐統がその才能を劉備に認められることになり、
さらに劉備は自身の行為を戒めることになりました。というお話。
益州とっちゃいなYO。
劉備陣営のアジェンダ「天下三分」を進める次の方策としては、
西の益州を獲って勢力を広げることが考えられていました。
おりしも益州を治める劉璋は、ブレーンである張松の説得を受け、
曹操の魏との関係を断って劉備とよしなにする方針をとっておりました。
また、そのころ急速に勢力を拡大していた宗教団体「五斗米道」の張魯とも戦っていて、
その援軍をお願いに法正が使者として劉備を訪ねているところ。
益州の劉璋は領民思いではありましたが、優柔不断で戦も下手。
張松と使者でやってきた法正は実のところ劉璋を見限っており、
「もう劉備さん、益州取っちゃってよ。」と秘密のお願いをします。
龐統も、この機に乗じて益州もらっちゃいなYO!と進言しますが、
「困ってる人にそんなんあかんでしょうが!」と劉備は難色を示します。
義理人情でやってきた劉備なので。
龐統はこれを諫め、
「無理な手段で益州を奪っても、
正しい方法で統治し、道義を持って彼らに報いて、
事が定まった後に大国を与えれば、信義に背くことはないだろう。」
と語り、益州を獲ることを劉備に決心させるのでした。
益州には龐統が同行し、荊州は孔明が留守を守ることになります。
益州に入った当初、のんきな劉璋は劉備たちの本心を知らず、
歓迎の宴を開くなど無防備。
龐統はこの機会に劉璋を捕らえ、無用に戦うこと無く益州を取るよう劉備に進言しますが、
劉備は「歓迎してくれてる人にそんなんあかんでしょうが!」と難色。
また、
「他国に入ったばかりで、恩愛や信義はまだ現れていないわけですしおすし。
これは重大な事であるから、あわててはいけない。」
と答えてこれを聞き入れませんでした。
その後、劉備軍は漢中にいる五斗米道の張魯と対峙するフリをして駐屯し、
成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していましたが、
龐統は劉備に対して、
・昼夜兼行で成都を強襲する上計
・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計
・一旦白帝城まで退く下計
の上中下の三計を提示、劉備は中計を採用します。
龐統の策略は、
東で曹操と孫権が戦い劉備に対して援軍を求めてきたことを口実に軍団を移動させると、
白水関を守る劉璋軍の楊懐・高沛を呼びつけて騙し討ちにし白水関を占領。
成都にむかって進撃するというもの。
これはうまくいき、連戦連勝。
成都を攻める大事の前の景気づけに劉備は宴会を開き、
酔っぱらった劉備は
「今日の酒席は実に愉快だ!」
と言いますが、
これを聞いた龐統、
「他国を討伐中に、上機嫌に酔っておられるのは仁君らしからぬ行為ですぞ」
とたしなめます。
劉備は泥酔していたので龐統の言葉にイラッとし、
「かつて周武王は殷を討伐して連戦連勝したとき、
将兵を労うときに無礼講を許していたと聞くぞ。
それが仁君の戦いではないのか?
君の申すことは矛盾しており不愉快だ。ただちに退出せよ!」
と叫び、龐統は後ずさりして退出。
飲み会の空気最悪です。
あ、しまったとすぐに後悔した劉備、
龐統に戻ってくるように頼み、龐統はもとの席に戻りまったく知らぬ顔で陳謝せず、
平然と飲み食いをつづけます。
劉備は龐統に向かって、先程の議論は誰が間違っているかきくと、
龐統は「どっちもっすわ。」と答え、
劉備は大笑いして、初めと同じように酒宴を楽しんだそうです。
仲直りできてよかったですね。
さよならは突然に。
劉備軍は、成都攻略の前に雒城を包囲しますが、
ここで悲劇がおきます。
この包囲戦の最中、あろうことか龐統が流れ矢に当たって死去。
享年36。生きていればさらなる活躍ができたであろう龐統の惜しすぎる死でした。
劉備は龐統の死を大いに悲しんみ、のちに関内侯を追封、
景耀3年(260年)9月には靖侯の諡号を贈られます。
龐統の最期について三国志演義では、
龐統のことを気遣った劉備が白馬を貸し与え、
その馬に乗って劉備の代わりに危険な間道を進んだため劉備と間違えられて、
伏兵に射殺されたという描写になっています。
その場所が「落鳳坡」という場所だそうですが、
この地は現在の四川省徳陽市羅江区白馬関鎮に実在しており、
落鳳坡の石碑付近には龐統のお墓があるそうです。
●龐統の評価とエピソード
龐統は人物評価を好んで行ないましたが、
いつもその人物を過大に評価しがちでした。
ある人に「ちょっと褒め過ぎじゃないっすかね?」と言われますが、
龐統は
「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。
褒め過ぎるくらいの評価をして、名誉欲を満たしてやらなければ善事を行なう者は増えないだろう。
志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」
と答えてます。
ほめて伸ばす、モチベータータイプのマネジメントです。
彼の評価としては『三国志』の作者、陳寿の評にいわく
「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、
当時、荊・楚の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」
また、「魏臣に当てはめると荀彧の兄弟」と書いており、
あの曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されています。
そんなわけで龐統回でした。
志半ばににして非業の死を遂げ、惜しまれつつ退場となった龐統。
まさに悲劇の天才軍師です。
天下に名だたる「臥竜」と「鳳雛」。
どちらかを得れば。と言われていた両方をゲットできた劉備でしたが、
この二人が健在であれば歴史は大きく変わっていたかも知れません。
運命とはなんとも一筋縄ではいかないものです。
なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。
ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。
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