歴史 軍師列伝

80 みんなだいすき三国志 軍師列伝1 諸葛亮孔明 後編

ごきげんよう、ハゲと天パです。
みんなだいすき三国志 軍師列伝。
諸葛孔明後編です。



孔明

前編のおさらい。

役人の家に生まれたのに、
なんやかんやありましての
晴耕雨読のスローライフ。
だけど全然苦じゃない孔明、結婚もして慎ましやかに暮らしていました。

だかしかし、時は戦国乱世。
北のしごできおじさん(曹操)がボクらの国を狙っているよ!という戦々恐々な状況、
南には勢力は劣るもののこれまた大きな国があってウムムのなか、
いまいちうだつのあがらない人柄ライジングおじさん劉備は、パッとしない状況を打開すべく有能人材を求めます。

昔はやんちゃだった系軍師(徐庶)に孔明のことを教えてもらった劉備は、二度の留守にもめげずに天才孔明を訪ね、
二度もすっぽかしちゃった孔明も、三度もきてくれた「三顧の礼」にありがとうと陣営に参加。

さっそく有能コンサル孔明は、いきなりでっかい大国にぶつかるのではなく、
地盤を整え力を蓄え3つ目の大国になりましょう。と、
「天下三分の計」をブチあげるのでした。


孔明

荊州での日々と呉への派遣。

建安13年(208年)、
劉備や孔明がお世話になっている荊州の劉表陣営では、
パパ劉表が今にも死にそうなピンチ。
後継者争いは、なんやかんやのロビー活動の結果、
次男の劉琮が後を継ぐ雰囲気になっており、
長男の劉琦は、居場所うんぬん以前に命の危機を感じていました。

これはやばいと思った劉琦、
なんとか助かる方法を孔明に聞こうとお願いします。
しかし、孔明的には劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれるのがめんどかったので、
うやむやにスルーします。

いやいや命がかかっとんねん!と必死な劉琦、
高い楼に孔明を連れ出し、登った後で梯子を外して、
「下ろしてほしければ助けて!」と要求。
これには孔明も観念し、
外に出て身の安全を図るよう勧め、劉琦もこれに従って脱出、命拾いします。

そんなこんなで劉表もこの世を去り、予定通り次男の劉琮が継ぎます。
諸葛亮は劉備に
「代替わりしてまだ地盤が整っていないうちに荊州を取れば曹操に対抗できますよ。」
と勧めるものの、義理人情がモットーの劉備は気が乗らないのでパス。

そうこうしているうちに曹操が南下を開始、
荊州を継いだ劉琮は光の速さで降伏。
劉備は曹操の軍から逃れ、
先述の命拾いした劉琦に助けてもらいます。


一方そのころ、曹操に対抗できそうな有力勢力、呉の孫権陣営は、
亡くなった劉表の弔問を名目に魯粛を荊州に派遣します。

魯粛



孔明は劉備に、孫権に救援を求めることを進言。
魯粛と共に自ら孫権の下へ赴き、劉備と呉の同盟、曹操との交戦を説きます。

前回の通り、曹操の魏はイケイケドンドン。
まわりの国々は着々と降伏し吸収されている状況です。
お世辞にも強力とはいえない劉備陣営なので、
孫権は「劉備はなんで曹操に降伏せんの?」と煽ってきます。

孔明はインテリらしく故事に例えながら、
「うちの社長は漢王朝の末裔なので曹操に下る謂れはありません、戦って負けるならそれは天命です。」
と答えます。

また、曹操軍は数十万の大軍勢と朝廷の権威を盾に南下してきているので、
実は呉陣営も「そんなん来られたら流石に無理ゲー。」と降伏ムードが漂っていましたが、
魯粛だけは徹底抗戦を主張していました。

孔明は、
曹操の兵が強行軍で疲弊していること、
荊州サイドは曹操に降伏しているけどそこまで従っていないこと、
そして、関羽が指揮する水軍と劉琦が指揮する江夏軍が孫権軍に協力すれば必ず曹操を破ることができる。
と、戦力を分析し交戦を説きます。

これに孫権は大いに喜び水軍三万を派遣。
やるねえ孔明。

なお、資料によっては孔明ではなく周瑜の策であり、劉備軍は特に対して働いてない。という説もありますが、
フィクションもちょい混ぜの「三国志演義」では上記のストーリーになっています。

その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決する、いわゆる「赤壁の戦い」で勝利するのでした。
赤壁の戦いは三国志でもかなりのハイライトになる戦いですね。

孔明

すぐわかる赤壁の戦い。


なお、戦いの様子を簡単に紹介するとこんな感じ。
孔明回なので、より彼が活躍する「三国志演義」から引っ張ります。
ぶっちゃけ史実に基づいた創作ですが、
ウチ、エンタメなんでね。

劉備・孫権連合軍と曹操軍は長江に沿う赤壁で対峙。
連合軍司令官の周瑜は曹操の大軍を相手にするには火計しかないと判断します。

周瑜

まず、計略を用いて荊州水軍を率いる蔡瑁と張允を謀殺。
荊州水軍は、光の速さで降伏した劉琮のところの軍です。

さらに曹操の策で偽りの降伏をしてきた蔡瑁の従弟を利用し、偽情報を曹操軍に流させます。
それに加えて将軍の黄蓋が周瑜に「苦肉の策」を進言し、
自ら火計の実行役となるべく曹操に偽の降伏を申し出ます。

また、周瑜は「孔明やべえ、早めになんとかしねえと。」と思っていたので、
後に呉の災いになる前に始末してしまおうと考えます。

周瑜は孔明に「10日で10万本の矢を集めて欲しい。」と難題をふっかけ、
できなければ死んでもらうと意地悪します。
しかし孔明、「あ、3日でだいじょぶっすよW」と快諾。
孔明は、魯粛に藁人形を積んだ船を用意してもらい、
夜霧に乗じて出港。
敵襲と勘違いした曹操軍は一斉射撃。
矢を射掛けさせることで10万本の矢を回収しました。
これには周瑜もぐぬぬ。

また、周瑜は後に劉備陣営の軍師となる龐統を曹操軍に送り込み、
曹操軍兵士が水戦に不慣れですぐ酔っちゃうので、船の揺れを和らげるために船同士を鎖でつなげるといいよ。と進言させます。
これは「連環の計」といい、
その真意は火計の際に船同士を延焼しやすく、かつ逃げられないようにするためのものでした。

そんなこんなで準備は整いましたが、困ったことに風向きが悪い。
当時のこの季節、このあたりは北西の風が吹きますが、
反対の東南から風が吹かないと、敵に被害が広がらず火計の効果が薄く、
却って自分達に延焼する恐れがありました。
周瑜の悩みを聞いた諸葛亮は
「オッケー、やってみよう。」
と祭壇を作り祈祷。
まさかの不思議パワーで東南の風を吹かせます。

機は熟し、投降を装った黄蓋が密かに積んでいた藁に火をつけて曹操軍に突撃。
「連環の計」のせいで身動きが取れない曹操軍の船は次々に炎上。
地上の陣にも東南の風で火が燃え広がり、曹操軍は散々に大敗北。
連合軍は大勝利を収めるのでした。

ついでに周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、
乱戦に乗じて東南の風を利用してスタコラサッサとドロンしました。
ルパンやん!

一方劉備軍は孔明の指示の下、
曹操の退却先に伏兵を置き追い討ちをかけますが孔明的には、
「今の曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能。
殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」
と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、
あえて関羽が恩返しに曹操を逃がすのを黙認します。

こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、
以後荊州は劉備と孫権の係争地となるのでした。




孔明

劉備の入蜀とか。

赤壁の戦いの後、
劉備たちは荊州南部の4郡を占領。
孔明は軍師中郎将という兵権を有し、3郡の太守を監察する職に任命されます。
ちなみにこの頃、連環の計の立役者、龐統が劉備陣営に加わります。

龐統


建安16年(211年)、
近くの益州を治める劉璋からの使者、法正が劉備に国を守って欲しいとお願いに来ます。
益州の劉璋、あんまりパッとしない人物で、
実は法正、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡すことを目論んでいました。

ミスター義理人情の劉備、初めこれを渋りますが、
龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をします。
劉備と孔明は手分けして益州を攻撃し平定。
戦うところ全てで勝利し、劉備と合流し共に成都を包囲(劉備の入蜀)します。

その後、劉備は曹操に勝利して漢中を領有しますが、
孫権軍の呂蒙・陸遜に荊州が奪われ、留守番していた関羽も斬殺されます。

建安25年(220年)に曹操が死去。
息子の曹丕が後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てます。
劉備は後漢の献帝が殺害されたとの報に触れ、翌年成都で漢を継ぐことを宣言。
皇帝に即位して蜀漢を建て、孔明は丞相となります。

章武元年(221年)に劉備は、
関羽の弔い合戦を兼ねた荊州奪還を目的に呉へ進軍を計画。
しかし、この準備段階で今度は張飛が部下に殺され、
しかもそいつらが張飛の首を持って孫権の下へ出奔するという事件が起こります。

孔明は張飛が就いていた司隷校尉を兼務し忙しさがさらにマシマシ。
進軍は最初から順調で、その勢いに孫権は途中で和睦を行おうとしましたが、
劉備は義兄弟を亡くしてプンスコプンプン。
絶対呉ツブすマンになっているので決して聞き入れず進軍を続けます。

怒りのパワーで快進撃を続けた劉備でしたが、
関羽を破った宿敵陸遜の作戦により、
荊州のみならず軍の大半と数多の優秀な人材を失う大敗を喫します。(夷陵の戦い)

陸遜、まさに蜀キラー。
この敗北によって孔明が示した「天下三分の計」は頓挫することになります。


劉備は敗戦の失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)崩御。
亡くなる前に孔明を枕元に呼び寄せ、

「そなたの才能は曹丕の10倍ある。
きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。
もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。
もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」

と事後を託します。
孔明も涙を流し、股肱の臣下としての忠誠を誓いました。


孔明

その後の蜀と孔明。

劉備の息子、劉禅が帝位に即くと、
孔明は武郷侯、開府治事、益州刺史を兼ね、政治の全権を担い多忙を極めます。
孔明は孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶って蜀と同盟。

さらに、魏に対する北伐を企図します。
孔明に全権が集中していて超多忙なうえに、この北伐は5回にわたって繰り返し、
部下も働きすぎを諌めるレベルです。
また、かわいがっていた愛弟子の馬謖が、勝手なことしてやらかし、
泣く泣く処刑(泣いて馬謖を斬る)したり、
必死で繰り返した北伐がうまくいかなかったりと精神的ダメージも蓄積されていき、
建興12年(234年)諸葛亮は病に倒れ、五丈原の戦いの最中の8月末、
陣中にて没します。享年54歳でした。

孔明の死後、蜀軍は退却。
この時、戦っていた晩年の孔明のライバル司馬懿は追撃を仕掛けますが、
蜀軍が反攻の構えを見せるとすぐに撤退。
三国志演義では、私が死んだら木像を作って生きているように見せかけなさい。と指示し、
木像を確認した司馬懿が「あれ?死んでないじゃん!」と驚いて逃げた。というエピソードがあり、
このことから「死せる孔明、生ける仲達を走らす」といわれますが、これは創作だそうです。
しかし、蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し
「彼こそ天下の奇才だ」と驚嘆したそうです。

孔明は、自身の遺言により漢中の定軍山に葬られますが、
墳墓は棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたまま、
副葬品は一切入れないという質素なものだったそうです。

死の直後、各地で「霊廟を建立したい」、「成都に諸葛亮の廟を建立すべきだ」という願いも出ますが、
故人の意向もあり朝廷はこれを許可しませんでした。
しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることが後を絶たずなかったそうです。


諸葛亮 孔明
孔明

孔明、後年の評価。

資料により評価は異なりますが、孔明が丞相だった頃、
彼は
「百姓を安撫し、規範を示し、官職を省き、制度に従い、誠意を表して、公正な道理を施した。
忠義を尽くして、時代に貢献した者には仇敵でも必ず褒賞を与え、
法を犯し事を疎かにした者は身内でも必ず罰し、
罪に服して真情を明らかにした者は重罪でも必ず赦免し、不実で偽りのある言葉を弄する者は軽罪でも必ず処刑した。
善行は僅かでも賞さないことはなく、悪行は僅かでも罰さないことはなかった。
諸事に精通し、物事は大本から理を通し、名実の一致を確かめ、虚偽は歯牙にもかけなかった。
領内の人々は皆、彼を畏れながらも愛した。
刑罰や政治が厳峻でも怨む者がいなかったのは、心を用いることが公平で賞罰が明らかだったからである。」

と評され、政治家として極めて高潔で優れていたことがわかります。

また、
「孔明の用兵は停止しているときは山のようにどっしりと、前進と撤退のときは風のように素早かった。
出兵の日には天下が揺れ動いたが、人々の心は何の憂いも生じなかった。
行軍は堅固と慎重を持し、行動しやすく進退自在、法令は明晰であり、
信賞必罰であったので士卒は命令に応じて危険な状況に赴き、死をもかえりみなかったため戦闘に強かった。」


「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。
だから不得手な面で無理をしなかったのである。
これこそ賢者の偉大なところであって、不得手な面をわきまえているということは得手を知っているということである」

と評価されています。

「天才軍師」というイメージが強いですが、
軍事においても政治においても奇策を多用することはなく、
あくまで基本に忠実に、
当たり前のことを当たり前に、
やるべきことを確実に、ブレずにやり遂げるのが、
孔明の凄さだったのだと思います。


そんなわけで、
みんなだいすき三国志軍師編、諸葛亮孔明。
前後編でお送りしましたが、
完全に配分を見誤りました!
次回は同じく蜀の軍師、
今回もちょろっと出てきた、
孔明と並び称される天才、龐統回です。
1回で終わるかどうか、それは誰にもわからない。

なお、このブログは、
気になったことを調べ、
学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。

ソースは主にWikipediaなどになりますので、
学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。

興味のきっかけや、ふんわりしたイメージ掴みのお手伝いになればうれしいです。




参考:
諸葛亮-wikipedia
漢-wikipedia
赤壁の戦い-wikipedia

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