気になる日本文学シリーズ。
前回の森鴎外「寒山拾得」に続いてこねくり回す作品は、
坂口安吾「夜長姫と耳男」の予定。
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だってお金がほしいので。
「夜長姫と耳男」 の雑なあらすじとしては、
飛騨の匠の弟子で実力派職人「耳男」がクライアントの依頼を無視して、
渾身の怖いの作ってビビらせたろ。と奮闘しますが、無邪気な超絶サイコパス夜長姫から返り討ちに遭うお話です。
ヒロインがだいたい怖いことでおなじみの坂口安吾作品の中でも、夜長姫は最強クラスのやべーヤツです。
この二人を中心として説話風に語られるこの作品は、
同じく説話風に書かれた「桜の森の満開の下」と双璧をなす傑作として評価されており、
安吾の古代史や舞台となる飛騨・高山への興味・関心、
また、彼の芸術観、恋愛観が色濃く反映された作品と見なされているのです。
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●作者 坂口安吾について
さてさて、今回は作者の坂口安吾についての紹介。
坂口安吾(さかぐちあんご)は、日本の小説家、評論家、随筆家。
1906年〈明治39年〉10月20日生まれ、1955年〈昭和30年〉2月17日没。
本名は坂口 炳五(さかぐち へいご)。
昭和時代、第二次世界大戦前から戦後にかけて活躍した、近現代日本文学を代表する小説家の一人です。
純文学のみならず、歴史小説や推理小説、文芸や時代風俗から古代史まで広範に材を採る随筆、
はたまた囲碁・将棋におけるタイトル戦の観戦記など多彩な活動を通し、無頼派・新戯作派と呼ばれる地歩を築きました。
・安吾の人物と生涯
坂口安吾は、新潟県新潟市出身。
東洋大学印度哲学倫理学科(現・文学部 東洋思想文化学科)卒業。
1913年(大正2年)創立の言語の専修学校、アテネ・フランセでフランス語を習得しました。
戦前はファルス的ナンセンス作品「風博士」で文壇に注目され、
一時低迷しますが終戦直後に発表した「堕落論」「白痴」で時代の寵児となり、
太宰治、織田作之助、石川淳らと共に、無頼派・新戯作派と呼ばれます。
その一方、気まぐれに途中で放棄された未完、未発表の作品も多いのですが、
その作風には独特の不思議な魅力があります。
また、「狂気じみた爆発的性格と風が吹き通っている「がらんどう」のような風格の稀有な作家」とも。
生い立ち。
安吾は、1906年に新潟県新潟市にて、
衆議院議員の父・坂口仁一郎と母・アサの五男として生まれます。
13人兄妹の12番目で本名「炳五」(へいご)。
兄弟多いな!
「炳」は あきらか という意味ですが、この文字で 丙午(ひのえうま)という意味もあり、
「丙午」年生まれの「五男」に因んで「炳五」だそうです。
血液型はA型。
なお、丙午は干支の1つであり、干支の組み合わせの43番目。
陰陽五行では、十干の丙(ひのえ)は陽の火、十二支の午(うま)も陽の火であり、
同じ気が重なるとその気は盛んになるという考えから、その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる、「比和」となります。
もちろん迷信ですが、
「丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」というものがあり、
恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処された八百屋お七が丙午の生まれだとされたことにより、
女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされています。
明治時代以降もこの迷信は続き、
安吾が生まれた1906年(明治39年)の丙午では、前年より出生数が約4%減少。
この1906年生まれの女性が結婚適齢期となる1920年代前半には、
縁談の破談や婚期が遅れるなど、心無い言葉が理由で女性の自殺の報道などが相次いだそう。
次の丙午は1966年になりますが、
1950年から2008年までの日本の出生率を見ると1966年が極端に低く、
1965年(昭和40年)の証券恐慌の影響もありますが、
昭和になってもこの迷信が依然根強く残り、子供をもうけるのを避けたり妊娠中絶を行ったりした夫婦が地方や農村部を中心に多発したそうです。
実際、前年(182万人)および翌年(194万人)と出生数は増加していますが、丙午の1966年は出生数は136万974人と出生率が前年に比べて25%も下落しています。
これは良くないと、丙午の迷信に対する取り組みを行う自治体も出始め、「ひのえうま追放運動」が展開。
丙午には根拠がないことを広報する取り組みのおかげか、まあ時代につれて薄まったのか、
次回の丙午である2026年には、このトレンドは継続しないと予測されているようです。
坂口安吾に話を戻しますが、
坂口家は代々の旧家であり、
「坂口家の小判を積み上げれば五頭山の嶺までとどき、阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」
と言われたほどの富豪。
邸内の広さは520坪で、松林の巨木に囲まれた邸宅は母屋と離れを合わせ90坪もある寺のような建物。
裏庭の松林を抜けると砂丘が広がり、日本海も見渡せたという超セレブ。
・・・でしたが、おじいさんの得七さんが投機に失敗して明治以後に没落。
お父さんの・仁一郎さんも政治活動に注ぎ込んだので、家は傾いていました。
幼少時の炳五は破天荒な性格で知られ、近所の子供を引き連れて遊び回るガキ大将。
ある叔父は「炳五はとてつもなく偉くなるか、とんでもない人間になるか、どちらかだ」と言っていたそうです。
5歳の時に生まれた妹に「お母さんを取られた」という思いがあり、見知らぬ街を彷徨ったり、
自分ばかり叱る母に対する反抗心から、砂丘に寝転んで光と小石の風景を眺めながら、海と空と風の中にふるさとと愛を感じ、その中にふるさとの母を求めていたのだとか。
そんな炳五ですが、小学校での成績は優秀で、ほとんどの科目が10点満点。
しかし中学校に入学後は近眼で黒板の字が読めなくなり成績が下がります。
ただ、家計が大変だったので眼鏡を買ってもらえず、
それがクラスメイトにバレるのが嫌だったことや、横暴な上級生への反抗心から学校に殆ど行かなくなります。
放課後の柔道などの練習だけ通ったそうですがそれ以外は海岸の砂丘の松林で寝転がるなどして過ごし、
雨の日は学校近くのパン屋の二階で百人一首をしていました。
なお、ようやく眼鏡も買ってもらいますが、
なぜか誤って黒眼鏡を買ってしまい、友達にイジられ、物理的にもイジられるているうちに壊れました。
安吾の由来と青春時代。
中学2年の時に、4科目(英語、博物など)で不合格となり留年。
家庭教師をつけられるなどしますが逃げ回り、
勉強をしない炳五に漢文の先生が、
「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴと名のれ」
と、黒板に「暗吾」と書かれたそうです。
今なら大炎上で朝のニュースになる案件ですが、これが「安吾」の由来だそうです。
次第に「反抗的な落伍者」に憧れるようになった安吾、
ボードレールや石川啄木の影響を受けており試験の際に答案を配られた直後に白紙で提出するなど反抗的態度を取ってイキりだします。
自伝小説「いづこへ」には、
「学校の机の蓋の裏側に、余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらうと、キザなことを彫つてきた」
という痛たたたなエピソードが。
※実際は柔道部の板戸に彫ったそうです。
そんなわけで、まあ落第濃厚であり、
これはヤバいと危惧した父や兄により、東京の中学校に編入。
母と離れて暮らしはじめ、炳五は世の中の誰よりも母を愛していることを知るのでした。
文学作品は、兄・献吉の影響で早くから読んでおり、
谷崎潤一郎、バルザック、芥川龍之介、エドガー・アラン・ポー、シャルル・ボードレール、アントン・チェーホフなどを愛読。
詩歌では石川啄木や北原白秋などを愛読し、短歌を作ったり、日本史にも興味を持ちますが、文学に自信が持てず、
野球や陸上競技に熱中、すもう大会に入賞したり、インターハイの前身である全国中等学校陸上競技会のハイジャンプで優勝したりしています。
意外とスポーツ万能ですごい。
デビューまで。
1923年(大正12年)父・仁一郎が死去。
山に入って暮らすことも考えましたが、お父さんの財産管理で借金もあったので、
東京の豊山中学校を卒業後は小学校の先生になります。
教育方針は
「温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせる」
で優しいが怖い先生だったそうです。
ちなみに月給は45円、借金10万円。
文学や短歌、宗教の活動や研究にも没頭し、
睡眠時間4時間(22時就寝午前2時起床)、仏教書や哲学書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けた結果、神経衰弱に陥り、
愛読していた芥川龍之介の自殺でさらに安吾の神経衰弱に拍車をかけました。
創作意欲を起こしつつ書けない苦悩の中で、自殺欲や発狂の予感を感じ、錯乱症状が悪化して、兄も病状を心配しますが、
古今の哲学書や、サンスクリット語、パーリ語、チベット語など語学学習に熱中することで妄想を克服。
極端。
大学でサンスクリット語などの辞書を読むために、さらにラテン語、フランス語を学び、
1928年(昭和3年)に神田三崎町のアテネ・フランセに通いはじめ、フランス語を成績優秀で「賞」をもらうほど習熟。
1930年(昭和5年)3月に東洋大学を卒業しますが、
既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めて寄席やレビュー、歌舞伎を観たり、音楽を聴いたり、
有名になりたいという野心と裏腹にカフェーの支配人になろうともします。
売れっ子作家とおくすりダメゼッタイ。
1931年(昭和6年)て6月、『青い馬』2号に散文ファルスとも言うべき「風博士」、
3号に、新潟県東頸城郡松之山町、松之山温泉を舞台にした「黒谷村」を発表。
「風博士」は牧野信一から激賞、「黒谷村」も島崎藤村や宇野浩二にも認められ、
一躍新進作家として文壇から注目。その後も作品を発表して売れっ子作家となります。
その後、スランプに陥ったり、戦争でそれどころじゃなかったりしますが、
戦争終結直後の1946年(昭和21年)「新潮」に発表した評論「堕落論」は、
終戦後の暗澹たる世相の中で戦時中の倫理や人間の実相を見つめ直し、
「堕ちきること」を考察して、敗戦に打ちのめされていた日本人に大きな影響を与えました。
また、同年発表の「白痴」も大きな反響を呼び、この2作によって脚光を浴びた安吾は一躍人気作家となりました。
引き続き次々と作品を発表して多忙になった安吾ですが、
太宰治、織田作之助、石川淳らとともに「新戯作派」「無頼派」と呼ばれて、時代の寵児となり注目され、
数多くの作品を各誌に発表するなど旺盛な活動を見せます。
発表した作品の反響は大きく、
執筆のペースは大幅に増えてさらに次々と作品を発表。
ヒロポンを服用しながら4日間一睡もしないこともあったりとかなり無茶しますが、未来から力を借りると必ずだ大きな代償があるのが世の常。
次第にヒロポンに加え、他のおくすりも服用するようになり、太宰治が自殺した頃から、鬱病的精神状態に陥ります。
これを克服するために、長編の連載執筆に没頭しますが、不規則な生活の中でおくすりを大量に服用したため、
病状は更に悪化、夫人や友人達の手により入院。
しばらくして薬品中毒症状と鬱病は治まり、置手紙を残して外出先から電話をかけて病院を自主退院。
そして発表したのが「僕はもう治っている」。 絶対嘘やん。
生活のために執筆を再開しますが、いわんこっちゃなく軽く使用した薬物のために病気が再発し発狂状態に。
やむなく夫人と静岡県伊東市に転地療養し、温泉治療でなんとか健康を取り戻します。
晩年。
1953年(昭和28年)8月、
文藝春秋新社の企画で、安吾が上杉謙信で、檀一雄が武田信玄という想定で川中島決戦を再現するため信州に旅行。
めっちゃ楽しそうな旅ですが、
おくすりの発作で暴れて松本警察署の留置場に入れられ、釈放された8月6日の朝、長男(綱男)の誕生を知ります。
子供の親だという自覚が芽生え、生活が変化。
50歳近くで初めての子ができたことに惑いながらも、子供の成長に伴い愛情を深め、貯金をしようかという気になり始ます。
また子にはパパ、ママと呼ばせる派でした。
しかしながら悲劇は突然に。
1955年(昭和30年)2月17日早朝に、
「舌がもつれる」と言いながら突然痙攣を起こし倒れ、7時55分に脳出血により死去。
48歳でした。
葬儀は2月21日に青山斎場で行われ、
弔辞を読んだ川端康成は、
「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。
坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」
とその死を悼みました。
安吾は生前、葬式は退屈で不要だから
「バカ騒ぎを一晩やりなさい。あとは誰かと恋をしてたのしく生きて下さい。遺産はみんな差しあげます。お墓なんか、いりません。」
「告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。」
と語っており、墓は故郷の新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家墓所に葬られましたが、
墓には安吾の名や戒名は一切印されていないそうです
小説としての絶筆は豊臣秀吉のこと書いた「狂人遺書」となり、この作品ついて安吾は生前、
「誰にもわかってもらえなかった秀吉の哀しさと、バカバカしいほどの野心とを書くんだよ」と言い、
53歳の高齢となって初の子供(鶴松)ができた晩年の豊臣秀吉に自己を投影して、
長男への気持ちを表現すると同時に、大きな執筆意欲を示していたそうです。
・エピソード
破天荒。
安吾は流行作家としての収入があっても全て使い切ってしまうので、税金滞納で家財や蔵書、原稿料も差し押さえられます。
また、よせばいいのに、競輪にハマったりします。
ちなみに、税金滞納については、「差押エラレ日記」、「負ケラレマセン勝ツマデハ」を書いて国税局に対して税金不払い闘争を行なったり、
競輪でも、レースの着順判定に不正があったのではないかと絡んで告訴したりと破天荒。
もちろん、「坂口さんの勘違いです。」となってます。
ライスカレー百人前事件。
この競輪告訴事件の泥沼化により疲れ果てた安吾、おくすりを多量に服用し、被害妄想から居場所を転々とします。
小説家、檀一雄の家に身を寄せていた頃、
「ライスカレーを百人前頼んでこい」
と突然、三千代夫人に言いつけます。
これが「ライスカレー百人前事件」です。
奥さんは近所の食堂や蕎麦屋に頼んで、ライスカレーを100人前注文。
檀家の庭には次々と出前が積み上げられていく・・・という恐ろしい事件ですが、
檀一雄はその時の安吾について、「云い出したら金輪際にひかぬから」と語ったそうです。
なお、ライスカレー事件の年の6月「夜長姫と耳男」が発表されています。
ちなみに、同じ頃、ゴルフと古墳巡りを始めました。
染太郎火傷未遂事件。
ライスカレー百人前事件とともに語られる事件に「染太郎火傷未遂事件」があります。
行きつけの浅草のお好み焼き店「染太郎」で、知人たちと食事中、トイレに立つ時になぜか熱い鉄板に手をついてしまいます。
ジュっと音がして焼けた安吾の手のひらを、すばやく氷で冷やして手当をしてくれた女将さんに感謝した安吾は、
「テッパンに手をつきてヤケドせざりき男もあり」という色紙を贈ったのでした。
へっぽこ名探偵。
安吾は少年時代から推理小説、探偵小説を愛好し、
推理作家としてはアガサ・クリスティを最高の作家として挙げ、横溝正史も好んでいました。
飲みに行くこともままならなかった戦争中には、友達と集まって、犯人あてのゲームに興じていたが、推理に一番熱心であったが一番当らなかったといいます。
友人の大井広介は、「彼(安吾)の推理は不可思議な飛躍をする」ことが多かったと回想しています。
道徳観。
1946年発表の「デカダン文学論」では、安吾の道徳観が綴られており、
その中の一説で今回はお別れです。
私は風景の中で安息したいとは思わない。
又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。
私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。
そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、
私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。
神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。
次回からは「夜長姫と耳男」本編を始めます。
よろしくおねがいします。
なお、このブログは、気になったことを調べ、学んだ内容とイラストを紹介するお絵描きブログです。
ソースは主にWikipediaなどになりますので、学術研究ではなくエンターテイメントとしてお楽しみください。
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